Experience オハイオ州立刑務所の受刑者と日本

−日米関係の一断章−(1)

 筆者は過去3年間、米オハイオ州の刑務所に「務める」機会があった。勤務するオハイオ大学が州立刑務所に講師を派遣し、資格ある受刑者に大学教育を与えるプログラムに携わっていたからである。大学から依頼され、派遣講師として働くことになった。

 数年前に当地へ留学していた時には、刑務所と係わるなど予期しなかったので、所内では驚きの連続であった。本稿のテーマもその一つである。今、改めて日米関係の歴史を考慮すると当然のことと思えるが、働き始めた当初は、この中西部の刑務所内で日本や日米交流を「発見」するとは意外だった。以下、日本人の私が所内で教えるようになった契機も含め、受刑者の日本との係わりや日本への関心などを述べたい。

 オハイオ大学の大学院修士課程終了後、私は同大学のキャンパスの一つで日本語を教え始めた。その田舎町に成人男子約2千人を収容する刑務所があった。ある日、所内の大学教育担当職員から、数名の受刑者が日本語の勉強会を作ったので教えに来てもらえないかとの連絡がきた。刑務所で日本語の先生を、という話しに戸惑ったが、丁度夏休みでもある。彼らが本気でやるのならとの条件で、ひと夏のボランティア仕事として引き受けた。

 初日は、暇つぶし組もいてか、30人近くの受刑者が教室に詰めかけた。しかし、最終日まで残ったのは、自ら教科書を入手して勉強会を発足させた2名を含む8名の熱心な者だけだった。彼らの日本語学習の動機は、日本人と国際文通している、アジアに興味がある、出所後の仕事探しに役立つかもしれない、他の受刑者が知らない言語を習ってみたい等である。今までに日本語とベトナム語を独学してきたという者もいた。

 夏が終わると、今度は大学プログラムの正式な講師として来てほしいと頼まれた。そこで、人種や宗教対立が深刻な問題になる場所柄も考慮し、多文化教育の一環として「日本文化」の授業を開くことにする。以降、同施設を含め、軽警備から重警備にわたる6つの成人男子用刑務所へ、がたのきたクライスラーで足繁く通うことになった。

 授業は、時間数・単位・試験から学期末の受講生による教員評価まで、大学の規定に従うのが原則である。私のクラスの受講生は、10人から多いときは50人近くであった。年齢は20代から30代前半が一番多く、人種的には白人と黒人がほぼ半数。しばしば「アメリカの縮図」といわれるオハイオであるが、中西部という地理的条件もあり、ネイティブ・アメリカンやヒスパニック系、アジア系は少ない。ある刑務所では、外国人受刑者の中に日本人もいると聞かされたが、結局、出会えずじまいであった。

 私の授業に登録した動機は、自分の文化的ルーツを理解したいと述べた日系人受講生を除けば、自国と異なる国のことを知ってみたいから、というのが大半だった。この点は予想していたとおりである。しかし予想外だったのは、日本在住経験者や思いのほか日本について詳しい者が、どの刑務所の教室にも数人いたことである。

 日本に住んだことのある受講生は、たいていは軍に関係していた。海兵隊の一員として日本に赴任し、自衛隊との共同演習の思い出を楽しそうに語ってくれた者もいた。また、在日米軍基地で働く両親のもとで幼少期を過ごし、今でも覚えていると、クラスで折鶴を手際よくおって見せてくれた者もいた。日本に短期滞在したという受講生にも出会った。ベトナム戦争時にオキナワに立ち寄った者など、やはり軍人としてである。父親が第二次大戦中に日本人と戦ったという者も何人かいた。日本嫌いの父をもつ一人は、日系の友人を家に招くことができなかった、と小さい頃の体験談を話してくれた。

 日本に行ったことはないが、当地で日本人とつき合いのあった受講生もいた。オハイオ州ではホンダなど日系の製造業者が多いので、仕事の上で日本人を知っていたり、日本人をビジネス相手に持っていたという者もいた。カジノで働く日本人の名前を教えてもらったこともある。大学生の時にキャンパスで日本人留学生と知り合う機会があった者もいた。アメリカの大学に在籍する日本人学生の数を考えると当然であろう。高校時代、日本から来た交換留学生と交際していたという受講生は、彼女との写真を得意げに見せてくれた。宗教や音楽雑誌を通して日本人の文通相手をみつけ、手紙をやり取りしている者も数名いた。

 日本人とじかに接することはなくとも、日本文化に関心のある受講生もいる。武道への興味が目立った。長年、空手道場に通っていた者は、教室の出入りの際、いつも「センセイ、シツレイシマス」と日本語で挨拶し、一礼してくれた。「サムライ文化」に惹かれているのは、アメリカでヒットしたテレビ番組「ショーグン」などの影響である。二の腕に漢字で「神風」と入れ墨している者もいた。一度だけ、仏教徒がいたこともある。仏教について皆に何か話してくれないかとその受講生に頼むと、鈴木大拙まで引用し禅について滔々と「講義」をし始めたので、私のほうが頭を垂れノートを取るはめになった。

 伝統文化にたいする知識はなくとも、やはり日本の車やバイク、電化製品の名前は、高品質のイメージとともに広く知れ渡っている。私の車が故障して授業に少し遅れた時には、「日本車に乗らないからだ」と教室で皆に言われた。「俺はバイクが好きだ。とくに日本のバイクは最高だ。だから、あんなバイクを作る日本人は優れた民族に違いない」などと単純明快な日本人論を述べてくれる者もいた。日本の漫画やコンピューター・ゲームの類に詳しい受講生がいたのは、アメリカの若者にそれらが浸透しつつある証拠であろう。

 「自由と平等」、「機会と成功」のアメリカは、「暴力と犯罪」の国でもある。そして刑務所は社会的逸脱者、アメリカン・ヒーローになり損ねた者たちの溜まり場であり、社会の歪みが凝縮されている所である。そのような一般社会と隔絶された場所にも、日本との係わりや日本に関心ある者がおり、私のように日本人教員がよばれることになる。

 日本では、昨年の沖縄の米兵による少女暴行事件に端を発した日米安保見直し論など、日米関係についての議論がさかんである。好むと好まざるとに関わらず、今後も日米関係はあらゆる位相で、ときには抜き差しならぬ状況を抱えつつ展開してゆくだろう。それゆえに、日米関係、日米交流などを考える際には、本稿で取り上げたような裏街道?まで含めた文字どおり草の根レベルの係わりが、もっと意識されてよいのではないか。そして、これはアメリカ側の米日関係論や日本研究にも当てはまることだろう。3年間、オハイオの大学と刑務所で働きながら、そう痛感した。

                          (古川哲史、米オハイオ大学講師)

 

参考文献:アメリカの刑務所の抱える制度的問題や所内での教員体験は、拙稿「『病むアメリカ』の刑務所」(『中国新聞』1995年9月21日付文化欄)や「『プリゾン大学』の教室から」1−8(同紙1996年8月1日-13日)などでも紹介した。安部譲二『懲役の達人』(集英社、1992年)はカリフォルニアの刑務所に「体験入所」した記録である。