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文化多元主義研究からワスプ研究へ

                                  越 智 道 雄

 私は長らく米豪の文化多元主義にかかずらわってきたが、これはホワイト・エスニック(南欧・東欧系)やマイノリティのことにかかずらわることを意味した。

 自分がなぜ文化多元主義にかかずらわったかという原点に帰れば、日本が徐々に多元化してきたときの参考にするためだった。ある程度ホワイト・エスニックとマイノリティのことが分かってきたところで、はたと気がついたのは、<これでは米豪の多数派のことが何も分かっていないではないか>ということだった。<もともと日本が多元化したときの参考にするためなら、日本では多数派である私たちの米豪の相似物、いわゆるワスプのことも知らなければ意味がないではないか。彼らが多元化にどう関わったかこそ、私たち主流派の参考になるのだから>。そこで昨年来、ワスプに取り組んでいる。

 かつての私は英米文学専攻者だったから、イギリス人やイギリス系アメリカ人、イギリス系オーストラリア人のことばかりやっていたものの、それはあくまで主流派としての彼らの知識であって、文化多元主義的コンテクストで相対化された彼ら、つまりワスプではない。アメリカではワスプという語は1970年代に頻繁に使われ始めた。1960年代半ば以降のカウンターカルチャーによって主流派の自己批判が行われた後に、公民権運動の発展段階としての文化多元主義が「民族性」を痛烈に強調し始め、主流派も自らをワスプとして相対化したーつまりイギリス系の場合は、逆に「民族性」を薄めたのである。それだけでなく、アメリカのイギリス系はかなり前から人口でも、ドイツ系にトップの座をを譲っているのだ(1990年国勢調査で英系四千六百二十万人、独系五千八百万人)。

 ワスプのイメージを持つには、ロバート・レッドフォードの最初の監督作品『普通の人々』が手頃だろう。シカゴ郊外のアッパーミドルの弁護士一家を描いたもので、優秀な兄がヨット事故で眼前で死んだショックのためにノイローゼになった弟、弟の弱さが母親の兄への偏愛に起因すること、アッパーミドルとしてのマナーを気にして感情が欠落しているこの母親こそ、次男だけでなく父親にとっても長い不満の歳月を産み出してきたことなどが、次第にあらわになり、ついに母親は家を出ていき、父と子だけが取り残される。

 もう一つ、今度は上流ワスプのイメージを提供しよう。ジョージ・ブッシュが少年時代のある日、帰宅早々、「お母さん、ぼく、今日ホームラン打ったよ!」と告げた(ブッシュは後に上流のプレップスクール、アンドーヴァでは野球のキャプテンをやるほど野球好きだった)。母親ドロシーは、一瞬の間を置いて、優しい口調で、「ティームはどうなったの、僕?」と聞いた。ブッシュ少年ははっと我に返って、勝敗を報告した。

 ドロシーはウォーカー家からブッシュ家に嫁いできたが、有名なブッシュ家のケネバンクポート(メーン州)の別荘がある場所がウォーカー・ポイントと呼ばれているように、プレスコット・ブッシュ上院議員は「マリード・アップ」、つまり同じ上流でも一枚格が上の上流の娘と結婚したのだ。

 1988年、ブッシュが大統領選で奮戦中、大変な高齢に達していたドロシーは「ジョージ、お前は自分のことを話しすぎるよ」と釘をさした。選挙だからやむをえない旨をブッシュが説明すると、「でも、も少し控えめにしては?」と粘った。

 ちなみにホームランのエピソードを自著で紹介したドイツ系の作家が、ユダヤ系の妻とイタリア系の男性の友人に告げると、二人はこぞってドロシーの対応に痛烈に反発を示し、「靴でほおげたを張られたような気がする」とまでいった。作家自身も、批判的だった。<どうしてまずホームランを打ったことをほめてやらないのか?>というのである。

 ワスプがティームを気にして、個人の独自性を抑制する傾向が、子供時代から徹底されるーしかも「優しい口調で」徹底されるのだ。母親によっては、無視とか微妙な仕種で暗に分からせようとするので、子供はびくびくと顔色を窺うようになる。なにより個性発揮の喜びを抑えられる苦痛が、子供をよけい歪つにし、その圧迫が『普通の人々』の弟のように、人生の危機に遭遇すると、ノイローゼを引き起こす。

 またティームワークと個性抑止は、内容や実質よりも外観に重きを置くマナー重視のカルチャーとなり、感情欠落を引き起こす。マナーに感情を込めることはむつかしく、どうしてもお体裁に堕してしまうからである。『普通の人々』でもこの感情欠落が問題になった。だがマナーは視覚的だし、おまけにワスプのマナーはカッコいいので、他の民族集団も真似し易い。だから主流派文化が滅びないのだ。またティームワークはワスプの政治・経済その他の独占に有利だった。

 ドロシー・ブッシュのようなワスプの母親を、「メイトリアーカル・マザー」と呼ぶ。素直にホームランをほめてやる母親は「マターナル・マザー」だ。『普通の人々』の母親は現代の「メイトリアーカル・マザー」で、ドロシーの線の太さがなく、病的である。

 さて、主流派としてのワスプ、主流派としての私たち日本人、似たところがあるような気もするがどうだろうか?病的な部分の手当てはもとより不可欠だけれども、ワスプも日本人も長い文化を背負っているので、長所は長所として活用した方がいいように思うのだが。                                

                                  (明治大学教授)