Theology

R. W. エマソンとマックスミューラー

 フリードリッヒ・マックスミューラー(1823-1900)は、1870年に初めて英国の王立協会で宗教学(Science of Religion)を提唱した英国の学者で、当時オックスフォード大学で近代文学と言語学の教鞭を取っていた。

 1873年、マックスミューラーは、1870年の講演に二つの論文を加え、『宗教学概論』(Introduction to the Science of Religion)としてロンドンで出版した。その本は、R. W. エマソン(1803-1882)に献呈されたもので、そこには、「1873年5月のエマソンのオックスフォード訪問を記念し、あわせて、この25年間エマソンの著作によって頭と心を絶えずさわやかにしてもらっていることに感謝して」と記されている。

 エマソンは1832年、29歳ではじめて英国も含めたヨーロッパ旅行以来、1847年10月から1848年7月までと、1872年10月から1873年5月まで、二度にわたって英国およびヨーロッパを訪問している。1847年のヨーロッパ訪問は、直接の目的は英国各地で講演をすることであった。

 マックスミューラーは、1873年4月23日のエマソンへの手紙の末尾に「25年間の長きにわたってのあなたへの真摯な敬服者であるマックスミューラーより」と記している。この25年間は、1873年から1848年に遡ることを意味するもので、エマソンの二度目の英国訪問の時にマックスミューラーの心を打つ出会いがあったものと推測することができよう。

 エマソンとマックスミューラーとの間には20歳の隔たりがみられるが、二人とも東洋の思想に強い関心をもっていた。とくに、エマソンは、インドの古典にも触れ、東洋思想を自らの思想に取り入れ、著作を通じて積極的に紹介を試みている。マックスミューラーもまた、研究者として、インドの聖典であるリグヴェーダーの注解出版に力を注ぎ、さらには、後年、インド、ギリシャの古代神話の比較言語学的研究、東方聖典の翻訳出版を通して、宗教学の成立、発展に大きな貢献をすることになった。

 マックスミューラーは、「詩人の子として、自分は、詩人になってしまわないよう、終生詩人になりたい誘惑と闘いぬいてきた」と晩年の自伝に記しているが、詩人としての一面をもつエマソンに惹かれるところもあったと思われる。

 ここでもう一つ問題にしたいのは、二人の「宗教」と「科学」に対する考え方である。

 エマソンは、ニューイングランドピューリタンの宗教思想家として活躍したジョナサン・エドワーズより100年遅れて生誕した。エドワーズは、当時、ヨーロッパ、英国から浸透してきていた合理主義、啓蒙思想の流れの中で、カルヴィニズムを中心としたピューリタニズムを、再復興するために、大覚醒運動を起こして、宗教の大衆化を促進した。エマソンも、ハーヴァード神学校を卒業後、牧師職を経験し、新しい時代思潮の中で、宗教を模索する。エマソンは、1832年、最初のヨーロッパ、英国の旅行に出かけ、帰国後、講演と著作活動に入っていく。1836年『自然論』を出版し、1837年、アメリカの知的な独立宣言ともいわれる「アメリカの学者」を講演、1838年には「神学校講演」を発表している。

 エマソンは、1830年の「宗教的自由主義と厳格主義」と題する説教の中で、「宗教的自由主義は、教義について、人間の能力を認めており、厳格主義派は、人間が罪に陥りやすいことを強調している。」とし、さらに、「教会の状態に対する第一の大きな反対は、教会が党派的な気風を生じていることで、またそのすべての派が排他的独善的であるということである。」として、当時のニューイングランドピューリタニズムの中核となっていた会衆派教会内で起こった論争に触れている。これは、1831年の日記で「わたしは宗派に属することは賢明でもなく、当然でもないと思う。聖書には、ユニテリアンであれとも、カルヴィニストであれとも、エピスコパリアンであれとも書いてない」と述べていることに符合する。さらに、エマソンは、同じ年の日記の一節に「科学を恐れる宗教は、神の名を汚し、自らを殺すものである。」と記している。

 1850年、エマソンは、『代表的人間像』を出版する。これは、1845年から46年にかけてボストンで連続講演をしたもので、1847年の第2回の訪欧に際しても、英国のマンチェスターで再び同じ講演をしている。その第2章の「プラトン」の中で、エマソンは、「万物を結ぶ一つの階段がある。天が地に照応し、物質が精神に、部分が全体に照応していることが、われわれをみちびいてくれるのだ。天文学とよばれる星の科学があり、数学とよばれる量の科学があり、化学とよばれる質の科学があるように、科学を対象とする科学があって、―これをわたしは、〈弁証法〉とよぶが、― それこそ偽りのものと真実なものとを見分ける〈知性〉なのである。それは同一の面と多様な面とを観察することにもとづいている。」と述べている。

 マックスミューラーは、宗教の科学的研究をめざす宗教学の提唱に当たって、当時のキリスト教至上主義者や宗教を迷信とみる宗教否定論者に対して無理解、誤解や危惧を取り除かねばならなかった。グルースターの司教をして、「インドの聖典とバイブルの優劣を決せしめようとする宗教学なるものは、この世に現れないことを祈る。」と言わしめたことは、まさに、宗教学がその成立期において、厳しい状況に置かれていたことを示唆するものである。そのような中で、エマソンの宗教と科学に対する態度は、一貫してマックスミューラーの研究を勇気づけるものであったと推察される。

 エマソンは、1873年の日記に「マックスミューラー教授が彼の新しい本をわたしに献呈してくれ、一冊送ってくれた。わたしは、その本を読んだ。わたしは、学者として、類似した名前から演繹した彼の度胸のいい結論の正確さを判断したり、または、これを味わったりするには、あまりにも頭が鈍すぎるけれども、わたしは、初期の彼の著書にしたと同じように、彼の学識とその成果に対して、敬意と感謝の気持ちを表したい。」と記している。

 マックスミューラーの宗教の科学的研究について、エマソンがどのように評価しているかは明らかでないが、宗教の視点については共通するところがあったものと思われる。                                

(宮田 元)