Rediscovery

日露戦争と「黄禍」論をめぐる人種的反応

―日本人と米黒人の出会い―(5)

 日清・日露の両戦争は「富国強兵」への日本の歩みを決定づけ、その勝利は世界の日本認識に大きな影響を及ぼした。日清戦争(1894-5)は、主として朝鮮の支配をめぐる両国の紛争に発したが、日本の勝利の結果、列強なみの政治経済上の特権や台湾などの植民地を獲得することになった。しかし講和条約調印後、三国干渉により遼東半島の放棄にいたったことが日露戦争の火種となった。日露戦争(1904-5)は、朝鮮と中国東北部の支配をめぐっての両国の争いであった。仏・露に対抗し、日本は戦費の大半を英米資本に頼り、短期決戦に賭け、米国による和平仲介を策して講和に至ったのであった。

日露戦争に際しては、非戦論者に内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦、片山潜、与謝野晶子らがいたが、対露強行論者に「七博士建白」事件(1903)に名を連ね、講和にも反対を唱えた戸水寛水らがいた。(注1)戸水は世紀末の1899年に『亜非利加ノ前途』と題した著作を出版しているが、これは日本人による最初のアフリカ論とされている。

同書で彼は、欧州列強のアフリカでの覇権争いや、鉄道・通信の敷設計画を紹介し、最終・第十節の冒頭で「第二十世紀の活劇場は支那と亜非利加ナリ」と述べ、結論部で「数年以前には暗黒亜非利加ノ名有リ 次世期(ママ)の上半ニハ黄金亜非利加ノ名ハ生セン 而シテ其利ヲ分カツモノハ白人ニシテ黄人ニ非ス 黄人眼孔甚タ小ナリ 今ニシテ努力セスンハ他日或ハ白人ノ奴隷ト為ラン」(注2)と警告した。両戦争後の日本が北進・南進両論のもと植民地主義へと傾斜する原点をなす発言であった。

日露戦争での陸海の勝利は、国内的には西欧コンプレックスの克服を、対外的には白人世界に恐怖の念を、有色人種には覚醒的な衝撃をもたらした。日本はアジアで唯一、植民地化を免れた民族で、白人種を相手にして勝ったということが、アジア・アフリカの人びとやアフリカ系アメリカ人に、植民地状況脱出の希望を抱かせることになった。

「脱亜入欧」を目指したころの日本人がそうであったように、アメリカの黒人も概して「碧眼」を 通して世界を見てきた。彼らは奴隷制廃止以降も、アメリカの支配階層WASP[英国系プロテスタント信者]の価値観のもとにあった。ところが世紀の変わり目ごろから「20世紀の問題は人種差別の問題で―それはアジア・アフリカ・アメリカ大陸や洋上の諸島における有色人種と薄[白]色人種の関係[the relation of the darker to the lighter races of men]の問題である(注3)といった世界的な展望の中で人種問題を把らえる動きが出てくる。黒人有識者たちは、有色人国家である日本の短期間における近代化に注目しはじめていた。

当時、米国の黒人解放運動には、保守派ブーカー・ワシントン(1856ー1915)の「タスキギー運動」と、革新派W・E・B・デュボイス(1868ー1963)の「ナイアガラ運動」の二大潮流があった。対立する両派の指導層や、Archibald Grimke(1849ー1930)Mary Church Terrell (1863ー1954)などの中間派知識人、地域社会の指導的立場にある牧師、ジャーナリストなど、著名人の多くがなんらかの表現で親日的見解を表明した。

戦争中にロシアで日本人の権益を守るために行動した外交官もいた。1898年からウラジオストックの初代アメリカ領事兼通商代表の任にあったRichard Theodore Greener(1844-1922)である。ハーバード大の2学部を修了し、米国で判事や弁護士職に就いたこともあった彼は、アザラシの密猟でアメリカ人3人と日本人2人が逮捕されたとき、弁護人のつかない日本人のために弁護をかって出た。その結果、16か月の刑を宣告されていた日本人2人は、6か月に減刑されたという。戦争前夜、日英両国の政府機関が退去を求められたのち、彼は同市周辺やサハリンから約1500人の日本人を帰国させる便宜を計ったり、戦中は残留日本人やイギリス人の保護に尽力した。(注4)

 米大統領セオドア・ルーズベルトの勧告で講和がなり、日本はサハリン南半、遼東半島租借権などをうる。しかし米資本家による南満州鉄道の共同管理提案を日本が拒否したことなどから米国のアジア政策と衝突し、日本の拡張に対する警戒心が強まる。さらには米西岸への日本人移民問題を、政争の具にした白人政治家の対応が絡み、両国関係は急速に軋みはじめる。1906年、サンフランシスコに大地震がおき、同市の復興過程のなかで日本人学童のチャイナ・タウンへの隔離問題、翌年には日本人の土地所有を禁止する州法案が上程されるといったことがあいつぐ。現地の新聞には日米戦争を予測し、「仕掛けられるまえに、こちらから始めろ」という論調まで見られた。これらを機に、米国は日本にとっての大恩人ではなく、人種主義の国だとの認識が強まる。

 日露戦争で黒人が日本びいきになったことは先述したが、有力な黒人系紙誌は、日本人排斥や学童隔離問題が世紀末より悪化していた南部の黒人差別と同根で、白人至上主義の共通の犠牲者と把えた。The New York Age 紙のT. Thomas Fortune(1856-1982)は、その代表的論客で、日本人労働者にパスポート発行を停止することに同意した日米間の紳士協定が、日本にとっては「紳士協定」とは言えないと同紙上で痛烈に批判した。カリフォルニアの白人紙が主張する開戦となれば、どちらにつくかということさえ、いくつかの黒人紙で論議、日本との同盟を予測する論調さえ見られた。(注5)

 在米日本人には、白人の目を意識してアフリカ系アメリカ人を疎んじる者も少なくなかったが、「黄禍」論を機に黒人の実情に同情を抱くものも出はじめ、日本の識者のなかにも、南アやアメリカの人種問題に注目する動きが出てくる。西海岸には当時まだ黒人は多くなかったが、彼らの職を奪うことになる日本人労働者の増加を懸念する黒人紙の論調もあった。しかし、一般に「排日」機運が高まる中で、黒人識者の態度は初期の「注目」からときには「同朋」「同盟」志向へと展開している。     

                                    (古川博巳)

 

 注1 戸水寛水(とみず・ひろんど)当時東大法科大学教授職にあったが、文中の政治活動のた め1905年休職処分となった。ところが全学あげて文相に抗議した結果、復職が成る。こ の「戸水事件」は、日本の大學自治上、最初の歴史的事件として知られる。

 2 同上著『亜非利加の前途』東京・有斐閣書房 明治32年刊。同書は本文21ページの冊子 と称すべき体裁であるが、日本で最初のアフリカ論とされている。引用部はp. 17, p. 20。  3 W. E. Burgherdt Du Bois The Souls of Black Folk: Essays and Sketches Chicago: A. C. McClurg & Co., 1903. p. 13。木島 始ほか訳『黒人のたましい』東京・岩波文庫 1992 年刊あり。

 4 ウラジオストック在任中のGreener については、以下の資料を総合した。Allison Blakely Russia and the Negro: Black in Russian Hisotry and Thought Washington, D. C. :Howard Univ. Press, 1986. pp. 44-48. Werner Sollors, Caldwell Titcobm, et al. (eds.) Blacks at Harvard New York Univ. Press, 1933. ほかに数点の米黒人関係伝記書を参照。  5 Reginald Kearney メAfro-Americaan Views of the Japanese, 1900-1945モ Ph. D. Dissertation to the Kent State University, 1991. pp.66-70.