Rediscovery
日本人とアフリカ人の出会いは、ポルトガル人宣教師が献上した「黒坊」、天正遣欧少年使節のモザンビークでの見聞など、16世紀後半に遡るが、米系黒人との出会いは18世紀末ごろとみられる。米建国2年後の1791年、レイディ・ワシントン号ほか一隻の米船が、南紀・樫野崎に来航、毛皮の売り込みを計ったが失敗。初代大統領夫人の名を冠した同船には、約20人の黒人がいたと日本側の記録にある。
欧州におけるナポレオン戦争の影響で1797年から1807年の間、ほぼ毎年、オランダ東印度会社の傭船として米船が長崎に入港した。19世紀には日本の漁船や千石船の海難者が米船に救助されるケースが増えたが、それら米船の多くに「黒人」(注1)が働いていた。救助された日本人で、後に著名人となった者に、1841年に助けられたジョン万次郎
(John Mung)、1850年救出のジョセフ彦蔵(Joseph Hecco)がいる。ともに十代前半から10年前後アメリカ人に世話をされ、成人したのち黎明期の日米関係に貢献した。
土佐の漁夫・万次郎ら5人は、漂着した無人島(鳥島)で「鍋の煤をぬったような色」の人に、手をとってもらったり背負われて助け出された。その後、捕鯨船など海上生活が多かった彼は、アフリカやパプア・ニューギニアのニグロイド系原住民についても言及している。彼は米国北部で初等教育を受けた最初の日本人であったが、教会で黒人席につくよう要請されるなど、人種差別を体験した最初の日本人でもあった。
播磨出身の彦蔵はバルチモアのカトリック系の学校に学び、洗礼を受けたが、40人ほどの黒人奴隷がいる農園で夏休みを過ごしたときの印象を、英文自伝(注2)に記している。彼らは「それまでに見た中で、いちばん健康で、活発な人たちだった。黒人たちの習慣や態度は、きわめて滑稽だった。とくに彼らが夜にやる踊りに興味をそそられた」と。ヒコは58年には帰化し、日系市民第一号になり、神奈川の米領事館に通訳として勤務した。南北戦争中に再渡米し、1862年3月、リンカン大統領と会見した唯一の日系人となった。自伝には執務室での会見のもようや、大農園の奴隷主で上院議員の不誠実、ヒコ自身が南軍の偵察とか高官と間違われた事件も記している。
1853年はペリー率いる「黒船」が来日し開国を迫った年であるが、その旗艦上では、幕府の役人に黒人芸能「ミンストレルシー」(注3)が披露された。維新前後、アメリカでは南北戦争の前後に当たる両国の歴史的転換期に、日本から二つの使節団が訪米した。
一つは万延元年(1860年)の新見豊前守正興を正使とする遣米使節で、アメリカでは奴隷制廃止数年まえの時期であった。高官三使は首都のホテルでの黒人盲人ピアニストの演奏会に招かれたが、随員の中には、黒人女性に差別の実状を訴えられ、不憫に思って持参の扇子を与えたりした者もいた。奴隷制廃止の機運にあることを知っていた通詞のひとり名村五八郎は、人身売買を極悪だと非難している。一行は帰路、希望峰回りの米船で日本に向かうが、ポルトガル領ルアンダに寄港する。同地での原住民の印象や米船が600人ほどの奴隷を仕入れたらしい旨の記述(村垣淡路守範正『日記』)がある。名村の日記では、一行の船の乗組員が、近くの海岸で売られようとしていた200人ほどの奴隷を見つけこれを助けた、と記している。しかし、当時の誇り高きサムライの一行は、みずからを交渉相手の白人と同等と見なしたが、他方ではすべての有色人を見くだし、奴隷制は自然の成り行きだと見なしている。 岩倉使節団が渡米したのは12年後の1872年で、奴隷解放後数年を経た時期であった。同使節団の公式記録・久米邦武編『米欧回覧実記』には、奴隷制の背景、内戦の原因、奴隷解放運動についての記述が見られる。首都滞在中、約四千人の生徒がおり、大学部もある大規模な黒人学校を見学したことも記している。さらに国会への黒人議員の選出や黒人実業家の進出にも言及している。肌色に関係なく教育の機会が与えられるなら、「・・・・・黒人ニモ英才輩出シ、白人ノ不学ナルモノハ、役ヲ取ルニ至ラン」と予想している。双方の歴史的激動期を経て、このように、わずか12年の間に、黒人系アメリカ人についての日本人の見解に大きな変化が見られる。
合衆国本土への最初の日本人移民は、1869年5月にサンフランシスコに上陸した会津若松出身の一団であった。彼らは「ゴールド・ラッシュ」熱を引いたエルドラド郡のゴールド・ヒル近くに土地を求め、茶や桑の栽培を手掛けようとしたが、結局、失敗に終わった。そのなかで、渡米2年後19歳の若さで病死した「おけい」については悲劇のヒロインとしてはかなり知られているが、他の入植者の消息はあまり知られていないようである。
日米の数点の断片的資料より得た当テーマに係わる事例を紹介すると、農夫だった梅三郎という人は、「黒人を雇ってアメリカン川の支流で、金を採取していた」と伝えられている。大工の増水国之助は三千ドル相当の金塊を探しあてる幸運にめぐまれ、ミズリー州から来た黒人女性と結婚し、その家庭で最初の子どもが生まれたが、それが日系二世の第一号であった。
木村毅、ビル・ホソカワ(注4)などによると、「おけい」は手作りの産着をもって出産祝いに訪れ、帰宅後、熱病に倒れて三日ののちに他界したという。増水はこの黒人妻とのあいだに一男三女を儲けたらしい。アメリカ人と世帯をもったためでもあろうか、語学の才に長け、裁判の通訳もし、大工としてはコロマ・ホテルや晩年にはフレスノ市の仏教大会堂を建て、1915年にコルサで没した。木村は1931年、渡米のおりに、増水の長男 George が「サクラメント市に理髪店を経営していた」(注5)旨を記している。
(古川博巳)
注1「南蛮屏風」や「紅毛船」絵図には、褐色から黒肌の水夫・従者などが描かれている。出島に はカピタン(商館長)屋敷の近くに「黒坊部屋」があった。商館日記にも「黒人」、「奴隷」 などの記述が見られるが、ごく初期と米船以外はジャバなど東南アジア系が主体である。
2 Joseph Heco The Narrative of a Japanese, Vols.I & II, Editor: James Murdock, 東京:丸善書 店・明治28年刊。邦訳に中川努ほか訳『アメリカ彦蔵自伝』 平凡社・昭和39年刊など。
3 「アメリカン・ミンストレルズ」の総称で、ヨーロッパでいう吟遊詩人の類ではなく、黒人 の道化芸人を、白人が模した歌舞興行で、19世紀にアメリカで流行した。
4 木村 毅『明治アメリカ物語』東京書籍・昭和53年刊。
Bill Hosokawa The Quiet Americans N. Y. :William Morrow, 1969.
Robert A. Wilson & Bill Hosokawa East to America N. Y. : Quill, 1982.
5 引用部は木村の上掲書 p. 138 より。
(注4の英書は山倉明弘氏の蔵書で、お世話になった)