序文   アメリカスという発想   

                             猿谷要   
  
  この「天理大学アメリカス学会」が創立僅か四年目に当たって、このように充実し
た総合的学術書を刊行することになったのを、創立の臨時総会に立ち会った一人とし
て、心からうれしく思い、お祝いの言葉を申し上げたい。
 第二次大戦の直後から、米国という存在の威力と魅力はまさに圧倒的なものとなり、
日本にも多くの米国研究者を生むことになったのは周知の通りである。アメリカ学会
はそういう風潮のなかで誕生し、今は会員が千名を越えるほどに発展している。
 私自身もその中の一人であり、米国研究を志したのは日本敗戦の一九四五年のこと
だから、もう半世紀以上の歳月が流れている。その間アフリカ系アメリカ人を中心と
するマイノリティ集団の研究から、北部に対する南部、東部に対する西部といった地
域差研究など、かなり研究の対象が、つまり興味や関心の対対象が拡散していいった。
  そういうなかで私が最初の転機にめぐりあったのは、一九六九年と七七年のカナダ
旅行である。とくに七七年は東のケベックから西のはずれのヴィクトリアまで、実に
丹念に歩き回った。
 その結果、カナダの各地からみた米国の姿が浮かび上がった。それまでみたことが
ない米国の姿だった。太平洋岸のヴァンクーヴァーは、遙か東の首都オタワよりも、
すぐ南に位置する米国のシアトルとはるかに密接な結びつきがあることを知った。
 こういう思いは、七九年から九八年にかけて、四回に及ぶ中南米諸国への訪問を通
じて増大し、やがて決定的なものとなった。この間私が訪ねた中南米の土地は二〇ヵ
所に近く、各地からみた米国の姿には、もちろん多くの相違点もあったが、また共通
点も見出すことができたのである。
 とくに中米ドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴから眺めた米国の姿は、いかに
も巨大であった。醜悪なほど、巨大に見えた。これを逆に米国からこの国をみた場合
には、歯牙にもかけない弱小の衛星国と感じていることだろう。
  ようやく私には米国という限られたテーマの研究が眼が開かれて、視野を西半球全
体に向ける余裕が生まれてきた。いやそうして初めて、多角的な米国像も浮かび上が
るのだという信念が私をとらえるようになったのである。
 そういう流れのなかで「天理大学アメリカ研究会」が生まれて研究対象を南北アメ
リカに広げ、さらに九六年には「天理大学アメリカス学会」として名実ともに大きな
飛躍をとげられた。実はこの飛躍こそ、新しく地平を拓り開く画期的なものだと私は
信じている。
 もちろん現実的には米国と西欧の結びつきが今もなお強く、話題となったサミュエ
ル・ハンチントン教授の「文明の衝突」(一九九六年)のなかでも、著者は米国を西
欧文明圏のなかに加え、ラテンアメリカをまったく別の文明圏として区別している。
この区分けは今後もある程度持続することだろう。
 しかし同時に西半球の一体化も、間違いなく進んでいく。メキシコ人が国境を越え
て米国内に入りこむとき、そこに待ち受けている米国の都市は、エルパソ、サンディ
エゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、サンノゼなどなど、みなメキシコ人になじ
みのスペイン語ではないか。
 二一世紀末になってハンチントン教授の描いた世界像がどれほど正確であったか、
今まだ誰も予想することはできない。しかし西半球のアングロサクソン系とラテン系
が、相互に刺教を与えながら結びつきを強めていく歴史の流れもまた、否定すること
ができないだろう。
 この「夫理大学アメリカス学会」は、まさにこの予言的な啓示を内包しながら登場
した。遠い未来を見すえて、着実な発展を続けられるよう、大いに期待したいと思う。