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2000年発行(第1

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『グローカル天理』第12号掲載論文要旨

井上昭夫 「漢字御廃止之議」と「おふでさき」

日本語の歴史は漢字からの独立の歴史であった。その一例である前島密の「漢字御廃止之議」(慶應2年)は、明治2年にはじまる「おふでさき」と、脱漢字という点で歴史的共時性を呈している。やまとことばは誌的表現向きであるが、「おふでさき」は個々においては詩的であり、総体的には論理的であるという二つ一つの調和の上に成り立っている。

特別掲載:「おふでさき」とローマ字―梅棹講演「言語と文明」における井上所長あいさつー

日本ローマ字会の会長である梅棹忠夫博士になぜ天理に来ていただくことになったのか。梅棹先生の前に会長をしておられた斉藤強三先生の終戦後の天理での講演や、天理教教義翻訳研究会での「おふでさき」翻訳のとき以来ローマ字会との御縁について解説する。斉藤先生は「「おふでさき」を読まないで、明治のことを言うな」と常々語っていたという。

特別掲載:梅棹忠夫講演「言語と文明―世界語としての日本語を考える」

2000年6月に天理で開催された特別講演を一挙掲載。日本語の漢字による千年の呪縛、中国語のラテン化に触れ、さらにIT時代の日本文明の危機に話が及ぶ。ローマ字論に対する反対論は文化論のレベルであり、「日本文明」の危機を救うのは英語ではなく、最高度の文明(科学・技術・経済)を語ることができ、国際語ともなりうる日本語のローマ字かしかない。

太田登・中井精一 「天理教原典とやまとことば(12) 奈良県方言資料1:『奈良県風俗誌』[1]」

原典ならびにやまと方言について研究するにあたり、重要と考えられる方言資料から大正4年(1915)、奈良県教育会によって企画され、県下市町村の小学校長を通じ実施された「奈良県風俗誌」について、その調査項目である39項目の詳細と、調査の概要について報告をおこなった。

佐藤浩司 「天理教東南アジア伝道誌(7)戦前のフィリピン伝道[5]」

北越支教会所属の高野馬治郎と、それに関わる保坂六郎治と小川孔一・ミネ夫妻のマニラにおける伝道について述べる。

金子昭 「天理経営学─その歴史・哲学・展望─(12) 思想編 宗教と経済・経営[6]」

出家修行を重んずるインドの原始仏教においては、もともと労働観と言うべきものは存在しなかった。大乗仏教において、在家信者と出家修行僧との聖俗区分を超える実践的な行為の教えが生まれた。それがいっそう本格的に花開くのは、中国で成立した禅仏教においてである。

小滝 透「天理比較神秘論への試み(12)人間と宗教[3]」

今回は、共同体の崩壊とそれに伴う私人の大量発生が、世界宗教発生の主因であることを述べてみた。次回は、こうして生まれた世界宗教と文明の関係、またそれ自身が内含する特徴と限界について述べてみる。

小林正佳 「芸術・癒し・宗教(12)協調と紐帯」

日本より一足早く近代国民国家への道を歩みはじめ西ヨーロッパ国々でも、円滑な集団行動といった行動様式自体、最初に国民軍を担った普通の民衆の運動習慣の中にはなかった。その意味で、どこの国でもそれは、訓練で身につける「技術」として教え込まれなければならなかった。

ウィリアム・マックニールというアメリカの歴史学者が、『Keeping Together in Time』という興味深い本を書いている。その中でかれは、協調して動くことのできた集団こそ、「人間」への進化の道を辿ることができたのだと述べている。

四万年以上前に遡る文化の成立は、人間の社会に三つの大きな帰結をもたらした。舞踊がもたらす意識変容の経験は、儀礼やさまざまな宗教的な心性の基盤になった。リズミカルな運動を通して、人間は、新しい段階の労働の形を獲得した。踊りは、大きな集団内部に併存する小集団それぞれの中での連帯感を効果的に育んだ。

上杉武夫「都市の再生に向けて──アメリカ通信(12)民主主義とアメリカ社会」

アメリカ大統領選挙後、2週間にわたってゴア陣営による手作業による開票の要求、ブッシュ陣営による連邦裁への請願など様々なことが起こっている。これはアメリカにおける民主主義の理想と現実の違いを呈している。とはいえ、国民がその結果に注目している現実を見ると、アメリカにおける民主主義はまだゆるぎなく健全であるようだ。今回のことは、来るべき世紀において、開かれた情報と教育が、政治と経済が調和するための鍵であることを我々に物語っている。

塩澤千秋 「脳死・臓器移植─カナダ通信(12)イスラム教と臓器移植」

イスラム教の臓器移植についての教義上の統一した見解はまだ見つからないが、律法に基づく現実の生活の中で判断を下している。脳死はイスラム教の死ではない。

小椋 博 「宗教・スポーツ・賭け(12)高校野球中継とスポーツの偶然性[1]」

高校野球のテレビ中継にも、視聴率をめぐって激烈な競争がある。視聴率を稼ぐため,ほとんどのスポーツ中継においてと同様,高校野球中継においてもゲームとしての本質が伝えられるよりも、スポーツ共同体に関するあらゆる言説が毎年、繰り返し放送される。スポーツゲームの基本的要素であるノマド的・偶然的・賭けの性質は脇に置かれる。要するにゲーム展開に固有の「生成」の側面が弱いというべきであろう。


『グローカル天理』第11号掲載論文要旨

井上昭夫 「人間・生命と地球の共進化と元の理」

 「元の理」は、先端科学技術の新たな発見と興味深くも合致している。一例として、生命と地球の共進化が挙げられる。つまり宇宙も人間の脳も、カオスとコスモスのバランスと進化のうえに成立している。人間の心もまたカオスを元にして調和あるコスモスの世界へと成人する点で相照応している。

太田登・中井精一 「天理教原典とやまとことば(11) 原典と表現法[5]─可能表現について」

 現代語の可能表現で特徴的な、可能動詞を用いる形式・可能の助動詞を用いる形式に焦点をあてて、原典を考察した場合、五段動詞には助動詞レルが、一段動詞には助動詞ラレルがそれぞれ接続した規範的な形式をとっていることがわかった。このことから可能表現をもとに原典『おふでさき』・『おさしづ』を検討した場合、原典は近世的な語法が色濃く残映した資料と言えるかもしれない。

笹田勝之 「天理教における悟りの構造について─他宗教との比較を通して─(11) 第一章「知ること」について[6]」

 天理大学における学問的研究は、今日では専門化し、諸科学に分化してはいるけれども、諸学問の統合、文化の統合、文化と実存の統合、科学と価値、意味、目的の考察との関連づけが、二元論的分裂をこえて試みなければならない。

堀内みどり 「天理異文化伝道(11)天理教のコンゴ伝道[10]─初代会長時代〈1963-1967〉[4

 1964年2月のクーデター未遂。政情不安定な中左傾化するコンゴで、高井は自ら発熱を通し、コンゴ人の人間らしさに自分の偏見を反省する。同じ頃、シンバシラ嬢がミチノと改名。3月飯田着任。フランス語が話せる布教師にコンゴ人信者の期待は大きい。しかし、飯田が体験しようとするコンゴには、多方面でフランス植民地時代の悪影響が現出し、人々の心も荒廃しているようにみうけられた。

金子昭 「天理経営学─その歴史・哲学・展望─(11) 思想編 宗教と経済・経営[5]」

 仏教の要諦は、迷いや苦悩の元になる煩悩を静めることにある。現代の企業経営や経済活動全体においても、諸々の欲念や我執を鎮静させ、足るを知る適正な人間的活動となしていく仏教経営論や仏教経済学が語られている。

佐藤孝則 「エコロジーの思想と実践(11) 『沈黙の春』が生まれた背景[2]」

 レイチェル・カーソンは海洋生物学者として、今日の環境危機を予測するかのように、『沈黙の春』を世に送り出した。DDT に代表される農薬が人体や自然生態系に与える悪影響に懸念しつつ、そのことを理解していない社会に対して警鐘を鳴らす意味で彼女はこの本を出版した。しかし、この本が生まれた背景には彼女の一大決心があった。当時の社会には、農薬は人畜無害で社会には欠かすことができない化学薬品、という肯定的な評価があった。そのような中で、この評価を覆そうとする本の出版は、ベストセラー作家の名声を失いかねない程のリスクを負っていたはずである。

金子珠理 「ジェンダー女性学情報(11) ケアの倫理[1]」

 道徳言語における周辺化された声の一例として、キャロル・ギリガン(Carol Gilligan)の『もうひとつの声』(In a different Voice)を扱う。そこで示された「ケアの倫理」をオルタナティブな道徳概念として把握してよいのかどうか、検討していきたい。

小滝 透「天理比較神秘論への試み(11) 人間と宗教 [2]」

 今回は、採取狩猟社会から農業牧畜革命を経て変遷する時代状況をバックにした宗教の在り方について述べてみた。宗教が自らの超越性に言及するのは当然のことであるが、それは同時に時代背景と社会組織の在り方と連動していることも確かである。今回はそれを古代宗教の成立から終焉に至る過程の中で論じてみた。

小林正佳 「芸術・癒し・宗教(11)「音楽」教育の「成果」」

 伝統的な日本音楽は二拍子と捉えられている。しかし、そもそも「拍節」に関する考え方が、日本と西洋では違っていた。直接「音楽教育」の目的が軍国主義になかったとしても、結果として「音楽」の授業は、日本人に新しいリズム感を植え付ける上で重要な役割を果たした。

上杉武夫「都市の再生に向けて─アメリカ通信(11)代替エネルギーとサステイナブル都市について」

 21世紀は「エネルギー多様化の時代」と言われている。環境的経済的要求を満たす新エネルギーへの移行にはまだ時間がかかるだろうが、それは21世紀の必然的な変化だ。ロサンゼルスにおける最近の交通問題を示し、アメリカの従来のエネルギー・交通システムを批判する。

塩澤千秋 「脳死・臓器移植─カナダ通信(11)ちょっと怖い話」

 ヒトの臓器を活動する異種動物の体内を経て移植する方法が開発されつつある。ヒトの遺伝子、生命はまったく新しい環境に置かれつつある。ヒトの命は大丈夫なのだろうか。

小椋 博 「宗教・スポーツ・賭け(11)スポーツと偶然性」

 スポーツとは偶然的存在であることを免れない人間が,勝利の不可能性をたゆまぬ訓練によって少しでも減少し,逆に可能性の拡大を目指して行う「試行」である。すなわち一つの試みであり,結果は偶然に左右されると言う意味で,一つの賭けでもある。実力のあるものが常に勝つとは限らないと考えるべきであるし,これまで排除してきた偶然の作用の重要性を再考するべきであろう.。その意味で今回の新聞などのシドニー五輪報道はあまりにスポーツの世界の必然性(計算され、計画通りの勝利)を強調する一面的なものであったと言わざるを得ない。


『グローカル天理』第10号掲載論文要旨

井上昭夫 「巻頭言 宗教とスポーツ」

 柔道において天理大学出身者がすばらしい活躍をしたシドニーオリンピックが終わった。もともとオリンピックはスポーツ祭典で宗教儀式の一部だった。現代においても、スポーツにおける極限の崇高さは宗教的とも言えるものだ。

太田 登・中井精一 「天理教原典とやまとことば(10) 原典と表現法[4]─原因・理由表現【2】」

 1711首の歌に、上記で取り上げた原因・理由表現は9%、約11首に1の割合で出現する。出現部位では、上の句と下の句に明確に分かれる傾向やユエのように、助動詞「たり」と共起し、他とは異なる文語的色彩の濃い表現も認められた。

笹田勝之 「天理教における悟りの構造について─他宗教との比較を通して─(10) 第一章「知ること」について[5]」

 人格の完成、人間の形成の不可欠な根底は、敬・愛・信という敬虔な宗教心・宗教的情操を培う宗教の教育である。そして、この宗教の教育は、教育者の宗教的人格的感化に裏付けられてはじめて真の宗教教育となる。

堀内みどり 「天理異文化伝道(10)天理教のコンゴ伝道[9]─初代会長時代〈1963−1967〉[3]

 高井を見物に訪れる人の何人かとの交流ができるようになった高井は、そのうちおつとめを教えるようになる。彼らに病人を連れてくるように言い、次から次へと「おさづけの理」を取り次ぐ。また、外へおたすけに出るようにもなり、布教活動が活発になるにつれて、警察当局から呼び出されることが度重なった。そして、布教認可を得るために、フランス語に堪能な飯田照明氏が本部から派遣されてきた。

金子 昭 「天理経営学─その歴史・哲学・展望─(10) 思想編 宗教と経済・経営[4]」

 キリスト教におけるグローバルな倫理においては、エコノミーとエコロジーとエキュメニズムが織り込まれている。本稿は、そのようなグローバル倫理の神学的展開について、Kung、WCC、J. Moltmann を引用して説明した。

佐藤孝則 「エコロジーの思想と実践(10)『沈黙の春』が生まれた背景」

 1960年代の米国社会に起きた環境保護運動のうねりを築いたのは、レイチェル・カーソンが著した『沈黙の春』である。彼女は苦学の末に、当時では珍しい「修士」の学位を取得した。海洋生物学者の彼女はベストセラーの本を著す作家でもあったが、ある時、その後の彼女の人生を変える1通の手紙を受け取った。

金子珠理 「ジェンダー女性学情報(10) ネイティヴのトポス[5]」

 パキスタンのフドゥード法(the Hudood Ordinances) の暴威を如何に解釈するか? 文化的ムスリムとしてのスレーリ(Sara Suleri) の見解を辿る。ローカルとグローバルを繋ぐディアスポラとして生きる意味についても考察する。

小滝 透「天理比較神秘論への試み(10)人間と宗教[1]」

 今回は、同時代的な宗教比較をしばしやめ、人類と宗教の関係を心身構造の面や社会形態の面から記述してみた。宗教の存在を原点から考えてみたいと思ったからである。次回も引き続き、宗教史を遡りその発展過程を記してみたい。

小林正佳 「芸術・癒し・宗教(10)体操と音楽」

 近代日本の「体操」教育が目指したのは、兵士の身体と、その応用編ともいうべき工員の身体をつくり出すことだった。とすれば、当然そこでは、それにふさわしいタイプの運動が選ばれたはずである。また、ある面で「音楽」教育も、それと同じ方向性を共有していた。二拍子の行進曲にあわせて歩く稽古は、それまでの日本人にとっては新しい経験だった。

上杉武夫「都市の再生に向けて──アメリカ通信(10)バーチャルワールドとサステイナブル都市について」

 IT (Information Technology) とバーチャルワールドの可能性と問題点を指摘し、サステイナブル都市の必要性を述べる。

塩澤千秋 「脳死・臓器移植─カナダ通信(10)臓器移植と宗教との関係[3]」

 ユダヤ教でも脳死について色々の教義的解釈があるが、ここでは脳死を首切断と同じと解釈し、教義的に認められる死の判定とする意見を紹介した。

小椋 博 「宗教・スポーツ・賭け(10)キャンプ事故と偶然性」

 野外活動の本質は、日常生活に比べて遥かに偶然の要素に大きく左右される環境のもと、それだけに危険性を伴う非日常を経験することの魅力である。しかし交通や移動手段の発達は、半ば人工化し、脅威よりも安全が保障されている「自然」を拡大し、それへのアクセスを容易にしている。そのためにここでの安全は「一つの可能性」(九鬼)、すなわち偶有性に依存するというよりも、安全の必然化という錯覚に捕らわれていることである。
 アウトドア活動が真に危険なのは、それが自然の中で行われるからではなく、安全の偶有性の意識が希薄化し、安全の保障が必然視された「自然」の中でにおいて行われるからであると考えるべきである。


『グローカル天理』第9号掲載論文要旨

井上昭夫 「巻頭言 天理大学雅楽部・「敦煌」演奏の歴史的意義」

天理大学雅楽部は、この夏蔵経堂発見敦煌学誕生百年記念国際学術会議に招請され、莫高窟の正面で雅楽を披露した。千年前の旋律をその場所で復元したことは、シルクロード文化交流史の中でも特筆されるべきだろう。「裏守護」と見立てられる異文化や他宗教は天理教の教えと繋がっているという点から、シルクロードにこめられた教学的意味は極めて大きいと言わねばならない。

太田 登・中井精一 「天理教原典とやまとことば(9) 原典と表現法[4]─原因・理由表現【1】」

原典『おふでさき』の原因・理由の表現には、様々なバリエーションが存在する。その分類・検討のためには、近世期以降の史的変遷過程ならびに文法的枠組みの把握が重要であり、天理図書館が所蔵する『狂言六義』および近世末期の資料等をもとに、その大枠について言及した。

笹田勝之 「天理教における悟りの構造について─他宗教との比較を通して─(9) 第一章「知ること」について[4]」

「人格の完成」という教育の目的のためには、「超社会化」、即ち「社会内存在」から「真理内存在」への転換の教育、「幸福に死する宗教の信心」の教育、「絶対の真理」の教育が肝腎である。

堀内みどり 「天理異文化伝道(9)天理教のコンゴ伝道[8]─初代会長時代〈1963−1967〉【2】

1963年11月25日、ブラザビルに着いた高井は、翌朝紺谷とノソンガ宅で朝づとめ。その際ノソンガの二人の娘に初めておさづけを取り次ぐ。11月27日、貸間が見つかり移動。さらに12月5日一軒家を借りられることになり、そこを布教拠点とする。

金子 昭 「天理経営学─その歴史・哲学・展望─(9) 思想編 宗教と経済・経営[3]」

パウロに由来する行動的禁欲の勤労倫理は、ルターの「天職(calling)の概念によって、信者の世俗的生活へと導き入れられ、そこから近代資本主義が発展してくる。本校はこれを論じる際、宗教とスポーツの関係を比喩として用いた。

佐藤孝則 「エコロジーの思想と実践(9)「エコロジー」の芽生え」

Ellen Swallowは、Ernst Haeckelによって名付けられた「oecologie」の概念を、1892年に、今日の「環境学」に類似した意味の「エコロジー」として正式に命名し、その普及を図ろうとした。彼女は、19世紀末に表面化したマサチューセッツ州の公害問題に心をいためていた。彼女は、河川環境の現状を明らかにするため、水質検査に努力を傾けた。また、食物の栄養分析を手がけるなど、体外・体内環境に関わる「循環システム」の研究に尽力した。また、環境汚染を防止するための消費者運動を組織するなど、まさに、彼女はオピニオン・リーダーとして、「エコロジー」思潮の源流を築き上げた。スワロー女史こそが「エコロジー」思想のパイオニアである。

小林正佳 「芸術・癒し・宗教(9)社会がつくる身体、身体がつくる社会」

わたしたちの身体、あるいは動き方の変化は、新たな「国民国家」を支える兵士や工員を求める社会的な要請に応えるものだった。両者とも、江戸時代の農民とは違う身体条件を必要としていたからだ。そしてそのことが、学校制度における体育や音楽の授業の成果として達成された。こうした社会的要請に沿ってつくりだされた身体や運動と比較することで、民俗舞踊を踊る身体の特質や、そこから導かれる人間関係のあり方を探ることができるだろう。

小滝 透「天理比較神秘論への試み(9) 死の風景」

今回は、宗祖に見る死の形態を中心に比較検討を加えてみた。その影響がきわめて大きいと考えるからである。とりわけ信者は宗祖の死の形を踏襲せんとする故に、この影響は絶大である。右の理由で死の意味を問い直してみた次第である。

金子珠理 「ジェンダー女性学情報(9) ネイティヴのトポス[4]」

トリン・T・ミンハにおける人類学とネイティヴとしての第三世界女性の表象の問題点を指摘する。続いてサーラ・スレーリによるトリンやモハンティ批判を扱い、更にスレーリの背景にあるパキスタンの状況を見る。

塩澤千秋 「脳死・臓器移植─カナダ通信(9)臓器移植と宗教との関係[2]」

ユダヤ教では心臓移植が始まり脳死の問題が出始めた早い時期から教義的にこの問題を議論し始めている。そして教義に基づいてある結論を出している。

小椋 博 「宗教・スポーツ・賭け(9) スポーツと賭け─テニスに見る上流階級とブルジョアの戦い─[2]」

全米テニス選手権大会開催地が1915年に移されるまでの間、社会階級を背景として、新興のビジネス階級と貴族的な上流階級、あるいはテニスの近代化・商業化路線と賭けを含む伝統的スポーツ路線の対立・葛藤の興味深い歴史がそこには存在している。

上杉武夫 「都市の再生に向けて─アメリカ通信(9)ホームレスとアメリカ社会」

ホームレスはアメリカ社会における大きな都市問題だ。ホームレスと環境問題は、どちらも個人主義と唯物主義という近代社会が蒔いた同じ種に由来している。アメリカの民主社会を作り上げる原動力となったこれらの価値基準が、一方では貧富の差を拡大し、多くのホームレスを生み出しているのだ。また、シングルマザーの問題もホームレスと切り離せない。社会的経済的理由によってシングルマザーが増えつづけ、その結果ホームレスが増えているアメリカ社会では、ホームレスも環境問題も同じ壁に遭遇している。ホームレス増加問題は、国家指導者と一般民衆の双方が解決に向けて取り組まなければならない。


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