天理大学

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天理大学の国際交流について

「韓国のなかの日本」 学生調査団 

第1日目(2月20日 月曜日)

出発式
 第1日目(天理→ソウル)

◎出発式

天理大学・釜山大学校「韓国のなかの日本」調査団に参加する天理大学一行27人(学生24人、引率教員3人)は20日午前8時、天理駅前に集合した。
天理大学の佐藤真一事務局長、学長室の宮田裕生室員、上村浩敏学生部長、国際交流センター足立正文室員、橋本眞理子留学生支援課員が駅前で「韓国のなかの日本」一行を見送った。

佐藤事務局長の激励の言葉をいただいた後、全員で三殿遥拝して、「韓国のなかの日本」の旅の無事をお願いした。
 
寒さをじっと我慢しながら景福宮の説明を聞く調査団メンバーたち
◎寒風のソウルに到着

天理大学・釜山大学校「韓国のなかの日本」学生調査団の一行、27人(学生24人、引率教員3人)は20日午後1時37分、関西空港発の大韓航空KE2726便でソウル金浦空港に到着しました。
この日の、ソウルの最低気温はマイナス2度。午後には零度以上になったが、風は冷たい。
この日、午前4時に家を出て、天理駅前での出発式に間に合った学生もいて多少睡眠不足でしたが、その眠気もソウルの寒風に吹き飛んだ様子でした。
 
浅川巧が「朝鮮民族美術館」を開館した緝敬堂(復元)の前で記念撮影
調査団が最初に訪れたのは、日本の植民統治下の朝鮮半島に1914年、林業技師としてわたり、韓国の人々に「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人」と称賛を受けた浅川巧の「足跡」が残る李朝の正宮殿・景福宮でした。

浅川巧は朝鮮半島の風土にあった育苗法を開発し、朝鮮半島の緑化に尽力する一方、朝鮮の陶磁器や木工品などの民芸の中に朝鮮独特の美を発見し、それを日本に紹介したことで知られています。40歳の若さで亡くなった後は、本人の遺志で韓国式に埋葬されました。
その浅川巧が収集した工芸品などを展示するため、1924年、景福宮内の緝敬堂と呼ばれる建物に「朝鮮民族美術館」が設立されました。
韓国独立後、収蔵品などを引き継いで設立されたのが景福宮内にある現在の「国立民族博物館」です。
調査団の一行は、復元された緝敬堂を見た後、国立民族博物館で、朝鮮の民俗資料などの展示を見学しました。
 
調査団メンバーの正野めぐみさん(4回生)は「2015年2月から1年間、ソウルの韓国外国語大学校に留学しましたが、景福宮にどのような建物があるのか知りませんでした」と語り、緝敬堂を興味深く見学した様子でした。また猪口大貴君(4回生)は「日本人で、このように韓国で活躍した人がいたことは、今回の韓国訪問前に資料を読んだり、(浅川巧の生涯を描いた)映画(道〜白磁の人〜)を見たりして、初めて知りました」と語り、熱心に景福宮を歩いていました。
 
景福宮内に置かれた昔の路面電車を模した展示物に乗って全員でポーズ
初日の夕食はカルビ焼き。にっこり笑って「いただきまーす」
午後6時からは、ソウル梨泰院のレストランで牛カルビを味わいました。
その席には、天理大学から韓国に留学中の8人の学生が合流しました。留学生がレストランに到着すると、調査団のメンバーと抱き合って久しぶりの再会を喜んでいました。

8人は韓国外国語大学の三宅幸香さん、南朋花さん、藤吉史緒さん、江原大学の高橋香帆さん、羽根田紗希さん、奥恵利奈さん、岡部紗弥さん、慶熙大学の有田有里さん。
韓国生活にも慣れ、韓国語の実力も急上昇…したはずです。引率の松尾勇先生、長森美信先生のお二人からも「たくましくなった」と称賛の言葉を受けていました。
 

第2日目(2月21日 火曜日)

浅川巧の墓所の前に到着した調査団一行
第2日(ソウル→大邱)

◎浅川巧の墓所訪問

天理大学「韓国のなかの日本」学生調査団一行、27人(学生24人、引率教員3人)は訪韓日程2日目の21日、ソウル市郊外・忘憂里にある浅川巧の墓所を訪問しました。
訪問団の乗った大型バスでは公園墓地内に入れず、一行はワゴン車に乗り換えて小高い丘の上に位置する浅川巧の墓地に向かいました。忘憂里の中で、最高の見晴らしの場所に位置する浅川巧の墓地は、小高く土を盛り上げ、その周囲を石垣で囲った朝鮮半島式の墓でした。墓前には、まだ汚れていない造花の花束が供えられ、墓域の芝生もきれいに刈られていました。浅川巧の死去(1931年)から86年たった今も、浅川のかつての勤務先である林業試験所の関係者らが、墓地を大事に守っていることが感じられました。
講演「浅川と朝鮮」
墓地訪問後は、ソウル市内で、韓国文化財庁傘下「国外所在文化財財団」の金相燁(キム・サンヨプ)国際協力室長から「近代日本知識人の韓国美術観-柳宗悦と浅川巧を中心に」のテーマで講義を受けました。
金室長は美術史の専門家で、白磁などの韓国民芸品の中から新しい「美」を見出し、広く日本に紹介した浅川巧と民芸運動の主導者として有名な柳宗悦の業績を「高く評価する」と述べました。さらに浅川巧らの功績を模範に「韓日の悠久の歴史的交流は事実であり、美術を通じた韓日の交歓から共有・共栄を模索しなければなりません」と訴えました。
講義を終え、松尾勇教授から天理大学の記念品を受け取る海外所在文化財財団の金相燁室長(中央)と財団の金成鎬さん(左)
 さらに「美術史専門家の私も財団での活動を通じて両国の懸け橋になりたい」との希望を語り、学生らの関心を集めました。

訪問団の室屋夏希さん(4回生)が「美術史専攻の金先生が、なぜ浅川巧に興味を持ったのですか」と質問をすると、金室長は「1996年に浅川巧について書いた日本の学者の著書の韓国語出版記念会がソウルであり、その本に描かれた浅川巧の姿に心を打たれました」と、浅川巧との出会いを説明しました。
調査団一行がKTXの中で食べた弁当。はしなどが入った袋に「日本No.1弁当 HottMotto」と書いてあった。これも「韓国のなかの日本」?
◎「文化交流で日韓交歓を」
 ソウルで浅川巧の「足跡」をたどった一行は21日午後1時、ソウル駅発の高速鉄道(KTX)で次の訪問地・大邱に向かいました。

ところで、調査団一行がKTXの中で食べた弁当の、赤いはし袋には「日本No.1弁当 HottMotto」と韓国語で書いてありました。これも「韓国のなかの日本」の1つに数えておきましょうか?
 
おいしい弁当を食べて到着した大邱では、日本の植民統治時代に中心地として繁栄した「北城路」(街の北側の城壁を壊して作られた道路)周辺に残る多くの日本家屋を利用した都市再開発計画を提案する、嶺南大学校日語日文学科講師の朴承柱(パク・スンジュ)さんから講義を受けました。
 
大邱の日本家屋再開発現場を踏査した日韓の学生たち。背景の壁画には1920年代の大邱駅前の様子が描かれている
会場は朴さんが運営するブックカフェ「大邱ハル」で、そこで、大邱市に隣接する慶山市に本部を置く嶺南大学日語日文学科、国語国文学科の学生12人と合流しました。
日韓の学生に対し朴さんは「近代以来の大邱‐慶北と日本」をテーマに講演し①1904年に日本が敷設した京釜鉄道の開通で大邱に多くの日本人が住み始めた②日本が朝鮮半島の植民統治を開始した1910年ごろ大邱市内は日本人区域と朝鮮人区域に分かれていた③大邱駅近くの北城路が日本人街として急発展した④駅から離れた南城路の朝鮮人区域は草ぶき屋根の家が立ち並んでいた——などと、当時の大邱の様子を紹介しました。

朴さんは、解放後、発展から取り残された北城路の日本家屋について「敵性家屋という負の歴史としてだけ見るのではなく、近代建築の遺構であると分析すべき」「日本家屋は歴史の記録であり、誰が使うかによって建物の持つ意味は変わってくる」との考えを提示し、4年前から朴さんらが進める日本家屋リノベーション事業を紹介しました。
また朴さん自身が運営する「大邱ハル」を、大邱の中・高校生が日本文化を体験する場として活用したり、大邱に住む日本人と大邱市民が交流したりする場として提供していることを説明しました。講義の後、日韓の学生一行は、日本家屋を「近代遺産観光コース」として開発する事業を推進するNGO団体の責任者、権相九さんの案内で、北城路一帯を巡り、日本家屋再開発に挑む経営者と会い、また、すでに完成し観光コースなどとして活用されている路地裏の様子などを実際に踏査しました。

旅の2日目は浅川巧の墓所訪問や大邱市内の日本家屋踏査など、マイナスの気温に落ち込んだ戸外での活動が続きました。しかし、韓国高速鉄道(KTX)に乗車したり、嶺南大学の学生との韓国語を使った交流に挑戦したりするなど、天理大学の一行は元気に旅を続けています。

3日目は、豊臣秀吉が朝鮮半島に攻め入った文禄・慶長の役(1592~93年、1597~98年)の際に作られた蔚山の西生浦倭城(日本が築いた城の意味)の城跡を「登山」し、夏の交流事業で出会った釜山大学の学生と再会するなど、忙しい日程が続きます。
 

第3日目(2月22日 水曜日)

第3日目(蔚山→釜山)

◎城とクジラと日韓関係

 調査団訪韓3日目の22日、大邱で朝を迎えた一行が見上げると、どんよりとした曇り空。
天気予報は時間が経つにつれて悪くなると報じていました。この日午前の日程は、蔚山市にある長生浦鯨博物館見学と鯨料理の昼食。
この日の日程の中で学生たちの印象に残ったものの1つは鯨料理だったようです。
鯨博物館で、日韓両国の捕鯨文化を学んだ後、近くの専門店で鯨料理を味わった一行の感想は様々でした。1回生の河合真奈さんは「日本が植民統治時代に持ち込んだ捕鯨を韓国の人がずっと維持してきたことが興味深かった」と博物館の展示に関心を示す一方、鯨料理については「鯨独特のにおいがちょっと…。もっと辛くして食べればおいしかったかも」と話していました。1回生の澤田洸さんは「チゲが美味しかったです。プルプルした透明な肉の部分が特に良かったです」という高評価でした

午後は文禄・慶長の役(1592~93年、1597~98年)の際に、日本の武将・加藤清正が築いた西生浦倭城の見学。
雨が強く降ったり、雪が降ったりした時は、標高200メートルの山に築かれた西生浦倭城に登るのはあきらめるつもりでホテルを出発しました。
 
長生浦到着前に雨が降り出し、鯨博物館で鯨の全身骨格や、日韓の捕鯨技術に関する展示などを見学し、近くの鯨料理専門店で鯨肉入りのビビンバ、鯨チゲを食べ終わったころには、雨脚が強くなっていました。西生浦倭城に到着したころには、やや雨は弱まっていたため、全員で頂上まで「登山」することを決めました。

急な坂道と未舗装の山道をたどると、靴底に粘土のような土がこびりつき、防寒着も雨に濡れましたが、全員、元気に天守のあった頂上の石垣遺構にたどり着きました。 
雨の中、西生浦倭城を訪れた調査団メンバー
現在、釜山大学に留学中の達城友香さん(右)と次に留学する石川琴菜さん

 またこの日は、昨年9月から今年6月までの予定で釜山大学に留学中の2回生、達城友香さんが夕食会場で合流。

達城さんの次に釜山大学留学が決まっている、調査団メンバーの1回生、石川琴菜さんと顔を合わせると、二人は固く握手しながら「めっちゃ、会いたかった」と声を挙げていました。天理大学と釜山大学の学生交流を支える留学生の伝統が、今回の調査団訪問で確かに引き継がれました。
長生浦鯨博物館に展示された骨格標本の前で記念撮影
西生浦倭城は雨の中の訪問でしたが、1回生の榎並美樹さんは「倭城はすごかったです。石垣をきちんと積み上げ、戦いに備えていたことが良く分かりました」と語り、韓国に残る倭城遺構の中でもっとも保存状態が良い西生浦倭城訪問を喜んでいました。
 
長生浦で鯨料理を食べる調査団メンバー。さてお味の方は…
 2日目の印象が強く、この日も、大邱での経験や交流を口にする学生が多くいました。

4回生の中川千春さんは「『大邱ハル』での講義を聞いて、日本人がかつて大邱にたくさん住んでいたことを知り、市内の実地踏査では日本の建物が多く残っているのを見て、不思議な気持ちがしました」と話していました。
また、大邱で出会った嶺南大学学生と早くも親友のように連絡を取り合うメンバーもいました。1回生の坂藤唯さんは「大邱で会った瞬間に、相性ばっちりの友人が出来ました。ソウルや釜山には日本人が多いですが、大邱では日本人と出会う機会が少ないそうです。
だから、私たちに強い興味を持って接してくれたのかもしれません。今日もメッセンジャーアプリで『互いに分からないことがあれば話し合おう』と連絡を取り続けていました」と話すなど、調査団一行は日々確実に、韓国の若者との友情を深めています。
 

第4日目(2月23日 木曜日)

釜山大学人文大学で記念撮影する調査団メンバーら
ワークショップで発表するA班のメンバー
 ◎「双子のような国」
 
4日目のメーン行事は国立釜山大学での学生ワークショップでした。
午前9時に一行のホテルを訪ねてきた釜山大学の学生らと8人から10人で構成する4つの班を作り、それぞれ事前勉強で学んだ「釜山のなかの日本」を探しに、班ごとに街に出ました。
実地踏査が済んだ調査団メンバーは各自、市内で昼食をとり、その後、釜山大学に集まって班ごとに研究の成果を発表しました。
各班メンバーと、出かけた場所、発表内容は以下の通りでした。

【A班】
<メンバー>
猪口大貴(4年)、正野めぐみ(4年)、和田美咲(3年)、川端塁(1年)、
濱田美保(同)、四元結唯(同)=以上天理大学
金暁静(3年)、崔辰娥(3年)=以上釜山大学
<場所>
甘川洞文化村など
朝鮮戦争で北朝鮮から逃れてきた避難民たちが作った集落。山肌に沿って入り組んだ路地と家屋が並ぶ、特殊な街並みに魅力を感じた美術家や写真家などがアートギャラリーを作り、2009年にスタートした再開発で新たな観光名所になった場所です。インカ帝国の遺跡として有名なペルーのマチュピチュと同様に山に立ち並んだ街であることから、開発事業は「マチュピチュ」プロジェクトと呼ばれました。
<発表概要>
景色が素晴らしく、観光地化するために家々に色を塗っていました。山の下には海と川が見えて美しく思いました。私たちは今回の交流をここで終わらせず、一生のものとしたいと考えています
 
ワークショップで発表するB班のメンバー
 【B班】
<メンバー>
中川千春(4年)、奥田隼生(3年)、石川琴菜(1年)、坂藤唯(同)、高橋優奈(同)、山口由貴(同)、達城友香(2年、釜山大学に留学中)=以上天理大学
柳昊伶(2年)、金假英(同)¬=以上釜山大学
<場所>
影島大橋、ヒンヨウル(白い瀬)文化村、釜山タワーなど
影島大橋は韓国で初めてできた開閉式の橋で釜山の象徴的な場所の1つです。ヒンヨウル文化村は街をアートにした海沿いの集落で、多くの映画などの撮影地になっています。
<発表概要>
私たちは今回調査で大邱市を訪問し、「大邱ハル」というカフェが日韓の交流の場として活動し、周囲では日本の植民統治時代の日本式家屋をリノベーションして活用しようという動きがあることを知りました。そこで嶺南大学の学生と知り合い、韓国について勉強しなければならないと思いました。ここ釜山でも韓国の学生と交流できたことは、少し前には私たちには想像もできないことでした。両国関係は悪くても国民1人1人を見れば仲良く過ごしてきました。互いに友人になれば日韓関係は良い方向に動いていくでしょう。今回のような交流を継続していきたいと思います。
ワークショップで発表するC班のメンバー
 【C班】
<メンバー>
室屋夏希(4年)、西田真唯(3年)、榎並美樹(1年)、岡沙織(同)、河合真奈(同)、川畑早紀(同)=以上天理大学
盧守貞(4年)、裵恩恵(4年)、康貞希(4年)=以上釜山大学
<場所>
東莱邑城壬申倭乱歴史館、禹長春博士記念館など
禹長春博士は19世紀末に李朝の王妃・閔妃(ミンピ)の暗殺に関与し日本へ亡命した朝鮮王朝の元軍人を父に持つ。日本で生まれ、東京帝大農科大学実科で学んだ後、農商務省(後の農林省)入りし育種学の世界的権威となった。敗戦後の1950年3月、建国間もない韓国に呼ばれ「祖国」の農業振興に尽力しました。
<発表概要>
昨年8月の「日本のなかの韓国文化」事業では韓国文化が日本の各地に根付いていることに驚きました。今回事業では大邱の街で日本家屋を残そうと努力して人々がいることに感動しました。こうした経験をより多くの人々に伝えるため、韓国語をもっと話せるようにしたいと思いました。韓国の大学でも学んでみたいと考えました。
ワークショップで発表するD班のメンバー
 【D班】
<メンバー>
大西彩花(4年)、佐藤治希(3年)、辻加奈子(同)、澤田洸(1年)、松本萌(同)、三宅由華(同)=以上天理大学
孫泳佑(4年)、金埈瑩(1年)=以上釜山大学
<場所>
釜山近代歴史館、龍頭山公園、釜山タワー
釜山近代歴史館は1929年、朝鮮の経済を支配する目的で日本が設立した「東洋拓殖株式会社」の釜山支店として建設された建物です。第2次世界大戦後は「釜山米文化院」として使われました。1999年、韓国に返還されました。主に、日本の侵略を経験した釜山の近代史と米韓関係に関する資料を展示する施設として使われています。
<発表概要>
今回事業で浅川巧の墓所がソウルにあることに驚きました。昨年8月は日本で韓国に関係するものを見つけました。両国を互いにより深く知ることで、日韓関係が良くなってほしいと考えました。
学生ワークショップ開催前の挨拶で今回の訪問事業の意義を高く評価した趙堈熙学長
 学生ワークショップには、今回事業の受け入れ先となった釜山大学人文大学(学部)の趙堈熙学長が参加し、学生たちの発表の前に挨拶をしました。そこで趙学長は「日本と韓国は双子のような国であり、だから時にはケンカをするのでしょう。『日本のなかの韓国』『韓国のなかの日本』のような事業で双方を良く知ることは極めて大事なことだと思います」と語り、今回事業の意味を高く評価されました。

第5日目(2月24日 金曜日)

釜山の臨時首都記念館(大統領官邸)の前で記念撮影する天理大学、釜山大学のメンバーたち
 第5日目(釜山→天理)

◎「この経験を後輩たちに」
 
天理大学「韓国のなかの日本」学生調査団の4泊5日の「学習」は、この日が最終日です。昨年8月の「日本のなかの韓国」学生調査団で出会った釜山大学の友人たちとも、しばらく別れなければなりません。午前中は、朝鮮戦争(1950~53年)当時、臨時首都となった釜山に置かれた「大統領官邸」として使われた建物を保存している「臨時首都記念館」を訪問しました。
記念館は1926年、植民統治下に慶尚南道の同知事官邸として建設されたもので、1階は洋風、2階は和風というレンガ造りの建物です。建物の保護のため1度に参観できる人数は7人で、学生たちは交代で内部を見て回りました。興味深いのは1階にある来客用トイレの便器です。解説員によると、当時、釜山にあった最高の陶磁器工場に作らせたもので、白い陶面に青の釉薬が浮かび上がる逸品で、この建物の格の高さを感じさせます。寒い戸外で見学の順番を待って参観した学生たちも、トイレ以外にもあちこちに使われた建築材の豪華さなどに見入っていました。
 
冷えた身体にアツアツの参鶏湯は最高のご馳走でした
 その後は、今回プログラムでは最後の食事となる昼食。鶏肉の中にコメや朝鮮人参、ナツメなどを詰め込み煮込んだ「参鶏湯」で旅の疲れを癒しました。

さて、「学習」プログラムの最後は、朝鮮戦争の避難民らが住み着いて形成したという、釜山の名所・国際市場の見学です。天理大学1年生は、授業で2014年の韓国映画「国際市場で逢いましょう」を見ていました。
朝鮮戦争で、北朝鮮の興南から避難する途中、父と妹と離れ離れになった長男が、家族のために国際市場で働き、成長していく姿を描いています。朝鮮戦争後の韓国の発展と、それを支えた庶民の姿を描いた名作として、韓国で大ヒットしました。学生たちは「あの映画のモデルになった店は見つかるかな…」と言いながら、各自の関心のある場所を踏査しました。もちろん、ここまで2泊3日の釜山滞在で、さらに友情を深めた釜山大学の学生たちも同行しました
金海国際空港出発前に天理大学、釜山大学の調査団メンバーが別れを惜しみつつポーズ
国際市場見学を終え、金海国際空港に向かうバスの中には釜山大学の裵恩恵さん(4年生)、盧守貞さん(同)、柳昊伶さん(2年生)、金暁静さん(3年生)、金埈瑩くん(1年生)そして天理大学から釜山大学に留学中の達城友香さん(2回生)らが乗って、別れを惜しみました。

引率の松尾勇教授は「交流する(天理大学と釜山大学の)皆さんの姿を見て、未来に向かって大きく前進の一歩を踏み出したと感じました。そのことを誠に心強く思っています」と語りました。
関西国際空港到着。「この経験を周囲の人にも伝えよう」という先生の話を聞く天理大学の調査団メンバーたち
また、今回事業の実施団体代表者を務めた長森美信准教授は「忙しい中、参加してくれた釜山大学の仲間に感謝します。両校の皆さんは私の誇りであり、希望であります」と、交流の成果を挙げた学生たちを称えました。

 天理大学一行は、金海国際空港発の大韓航空759便に搭乗し、午後6時10分、関西国際空港に到着しました。空港での解散式で天理大学の学生たちからは「最高の4泊5日でした」との声が上がり、松尾先生、長森先生からは「この経験を自分だけに留めず、周りの人々にも伝えよう」という「宿題」が出されました。
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