天理大学

天理大学の国際交流について

「日本のなかの韓国文化」学生調査団近畿編 

第1日目(8月24日 水曜日)

天理市長表敬訪問
  第1日目(天理市)
1時15分発のBX126便で釜山金海空港を出発した釜山大一行25名(学生22名、引率者3名)は、予定通り12時35分に関西空港に到着。14時40分頃に天理市庁に到着した。
 
◎天理市長表敬訪問
 本事業の最初の行事は天理市長の表敬訪問。並河健市長からは天理という土地の歴史と今について、また姉妹都市である忠清南道瑞山市との交流について紹介があり、本事業が所期の成果を収めること、また日韓両国の交流を担う団員たちの将来に対する期待の言葉があった。
 
◎結団式
 市長表敬訪問を終えた釜山大一行は、天理市文化センター視聴覚室に移動。天理大学側の団員15名と合流した。日韓両国学生の待ちに待った初めての対面である。
 本事業団体代表の長森美信准教授(天理大)より、本事業企画から実施に至るまでの経緯について説明があった後、結団式を行った。釜山大学代表の趙堈熙教授からの挨拶の言葉に続き、学生調査団を代表してノ・スジョンさん(釜山大)、大西彩花さん(天理大)から本事業に対する期待が述べられた。

◎講演「奈良・飛鳥と韓国文化」
 結団式終了後、長森美信准教授から奈良・飛鳥地域と韓国との間の交流の歴史についての講演があった。第2日目以降に学生調査団が踏査を行う斑鳩、飛鳥を中心に、古代からの日本と韓国との交流の歴史を紹介する内容であった。
 長森准教授からは「千年以上前に、様々な文化が韓国から日本に伝えられた。そのこと自体、とても大切なことだが、その文化が日本の地でどうやって今まで守られ、伝えられてきたのかを考えることも大切」との言葉があった。

◎瑞山クラブとの交流会
 講演の次は「瑞山(ソサン)クラブ」との交流会である。天理市は行政としても忠清南道瑞山(ソサン)市と姉妹協定を結んでいるが、市職員の中で特に韓国との交流を積極的に進めている有志の方たちが、「瑞山(ソサン)クラブ」という集まりを作って活動している。
 このクラブの山田寛幸氏(スポーツ振興課長)から、同クラブの活動内容についての紹介があった。現在会員数は22名で、行政職員相互派遣研修で派遣された者、同事業の担当者が中心となって、瑞山市民との友好交流事業を継続しているとのこと。瑞山市には天理クラブがあるという。
 「国と国の関係は良いときもあればそうでないときもある。日本の地方自治体の中には、両国関係で何かあると交流をやめてしまうところも少なくない。私たちと瑞山市はチング(韓国語で友達の意)なので、どんなに両国の関係が悪くなっても、交流をやめることはない」との山田氏の言葉に、学生調査団のメンバーも大きくうなずいていた。
 
瑞山クラブとの交流会(天理市文化センター)
天理大学での歓迎会
◎歓迎会
 瑞山クラブとの交流会を終えた一行は、天理大学に徒歩で移動した。心光館(学生食堂)を会場に歓迎会が開かれた。天理大学からは永尾学長、大橋副学長、山倉国際学部長、上村学生部長、吉田留学生支援課長らが参加し、天理大学の協定校である釜山大学校一行の来校を歓迎した。韓国・朝鮮語専攻からは松尾勇教授、岡山善一郎教授、金善美准教授、趙賢眞特任准教授ら、全教員スタッフと多くの在学生、韓国からの交換留学生も参加して、釜山大一行との交流を深めた。

釜山大一行は、飛行機内で軽食をとった後、まともな食事ができなかった模様。用意された食事は決して豪華とはいえないものだったが、ようやくお腹が満たされたのか。国籍を問わず、隣にいる学生同士での会話も少し弾んだ様子だった。

 
歓迎会・集合写真
 歓迎会終了後、宿泊先のホテル(奈良市内)に移動する釜山大一行を見送った後、天理大の学生は各自帰宅の途に就いた。いよいよ明日から、学生調査団の本格的な活動が始まる。

第2日目(8月25日 木曜日)

 第2日目(天理大学内→明日香へ)

◎天理参考館
 JR奈良駅近くのホテルで宿泊した釜山大一行は、朝9時30分に天理大学附属天理参考館に到着。同館学芸員太田三善氏から「東アジアの古代瓦」と題する講演があった。天理参考館の建物の屋根に瓦を葺いた際の写真を用いながら、瓦の種類、瓦の葺き方に関する基本的な説明、ギリシアなど世界での瓦の使い方についての紹介があった後、瓦を通した古代東アジアの交流についての話が続く。古代中国で作られた瓦が、朝鮮半島を経て、日本に伝わっていった過程が、瓦の文様を通してわかりやすく説明された。特に韓国の扶余と日本の飛鳥で出土する瓦の類似性から、飛鳥の瓦が製作された過程に百済の人々が深く関わった可能性が指摘された。
 
講演「瓦を通して知る日韓交流」天理参考館にて
講演終了後は天理参考館内の展示を見学した。釜山大・天理大の学生たちは、講演の中で言及された各国の瓦の現物を目にしながら学びを深める一方、世界各国から収集された様々な展示物を見て驚きを隠さなかった。

 

天理参考館内見学
天理図書館にて
 ◎天理図書館
 参考館見学後、天理図書館に移動。同館司書の西口尚子氏より、国宝、重要文化財を含む多くの貴重書を有する天理図書館の歴史と現在について紹介を受けた後、館内を見学した。図書館の配慮で展示室では、『日本書紀』の仏教公伝に関する部分や、韓国関連の資料など、普段は展示されていない貴重な資料を直接目にすることができた。一行は、朝鮮通信使を描いた絵画資料や、韓国で国宝級とされる『夢遊桃源図』(重要文化財)の非常に精緻な復元品を前に、感嘆の声をあげていた。
 
法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)
◎法隆寺
 学生食堂で昼食を終えた一行は、バスに乗り込み、斑鳩町の法隆寺を目指す。バスでは、韓国、日本の学生が交互に座った。バスに乗ったときにはまだお互いの顔と名前が一致しなかったが、法隆寺に着く頃にはすっかり打ち解けていた。
 法隆寺では、五重塔、金堂、大講堂についての案内を受けた後、止利仏師(止利仏師の祖父は百済から渡ってきた司馬達等)の手になる金堂の釈迦三尊像や大宝蔵院に納められた玉虫厨子、百済観音などの貴重な文化財を見学した。
 
◎中宮寺門跡
 この春から夏にかけて日韓国交正常化50周年を記念する特別展が日韓両国で開催された。韓国国立中央博物館の「韓日国宝半跏思惟像の出会い」(5月24日~6月12日)、東京国立博物館の「ほほえみの御仏—二つの半跏思惟像—」(6月21日~7月10日)がそれである。
 この特別展は、両国で大切にされてきた半跏思惟像が、同じ時、同じ場所に展示されたことで大きな話題となったが、中宮寺門跡のご本尊はすでに戻っておられた。直接目にした一行は、その穏やかな表情に魅せられたようである。韓国の国立中央博物館が所蔵する二つの半跏思惟像を知っている韓国の学生たちは、中宮寺のご本尊を前に、「本当によく似ている!」と驚いていた。
 
◎百済寺(くだらじ)
 斑鳩町を後にした一行は今日の宿泊先である明日香村に移動した。その途中の、奈良県広陵町の住宅地の中にある百済寺は、百済との関わりが指摘されているが、古いものは残っていない。バスを降りて三重塔を眺めた学生たちからは、「屋根の形が法隆寺の五重塔と似ている」、「思ったよりも小さいかな」などの声もあがった。
 
明日香村ホームスティ(ホストファミリーと)
 ◎明日香村入村式
 明日香村に着いた一行を迎えてくれたのは、ホストファミリーのみなさん。石舞台下の広場で開かれた入村式には、森川裕一村長も出席してくださった。森川村長からは、日本のくにが始まった明日香村という土地について、また韓国との深い関わりに触れながら、一行を歓迎する挨拶をいただいた。
 ここで一行は3~4名のグループに分かれて、各家庭にひきとられていく。釜山大と天理大の学生たちは、大きな期待と少しだけの不安を胸にそれぞれの受け入れ家庭にひきとられ、それぞれの時間を過ごすことになる。
 
明日香村の夕ぐれ

第3日目(8月26日 金曜日)

第3日目(明日香→大阪)
◎明日香村離村式
 ホストファミリーのお宅で、明日香村の住民として一夜を過ごした一行は朝8時30分にふたたび石舞台下の広場に集合。今回のホームステイプログラムをコーディネートしてくださった飛鳥ニューツーリズム協議会の山中剛氏の司会で離村式が行われた。
 ホストファミリーの方々からは「ふるさと」の歌の贈り物があり、これに対するお返しとして、学生たちは韓国の「コヒャン(故郷)」という歌で応えた。各家庭でそれぞれのおもてなしを受け、短い時間ながら家族の一員として過ごした一行は、再開を約束しながら、別れを惜しんだ。
お世話になりました。
コ・ガンウク君(日文学科3年)は「お世話になった家は山の本当に高いところにあって、小学生の男の子2人がいました。すごくすごく元気な兄弟で、山道の中をサッカーボールを追いかけて走り回っていました。一緒に遊んだのですが、子どもたちの動きが速くて、ついていくのが大変でした」「一日はとても短かったです。子どもたちも早く寝なくちゃいけないので、ゆっくり話をする時間がもう少しほしかったです。次に機会があれば一週間くらい過ごさせてもらえるとうれしい」と語った。
たしかに一日限りのホームステイは短かったが、韓国の学生たちも日本の一般家庭の雰囲気を少しは感じ取ったようである。
明日香村ホームスティ「離村式」
石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)
3日目最初の訪問地は石舞台古墳である。7世紀前半に築かれたとされる石舞台は、国内最大級の石室を持つ古墳で、蘇我馬子の墓とする説が有力である。
石室を覆う二個の巨石はそれぞれ64t、77tと推定されている。これらの巨大な石を見ながら、解説を聞いた両国の学生は、口々に「すげえ!」「想像以上です」との感想を漏らした。
 
飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村)
◎飛鳥寺(あすかでら)
 飛鳥寺は日本最初の本格寺院である(596年完成)。蘇我氏の氏寺で、創建当初は法興寺と呼ばれた(「仏法興隆」に由来)。
 『日本書紀』によれば、588年に百済から招かれた僧侶、寺工(建築技術者)、瓦博士、画工らが建築に取りかかり、8年の歳月をかけて完成させたという。
 飛鳥大仏として知られるご本尊の姿は、見る角度によって表情が変わる。日本で最初に作られたご本尊が百済系の止利仏師の作であること、製作されたそのときから今まで千数百年のあいだずっと変わらず、この地にいらっしゃるとの説明を、両国の学生たちは静かに聞いていた。
 
高松塚壁画館(奈良県高市郡明日香村)
◎高松塚(たかまつづか)古墳
 高松塚は、7世紀末から8世紀初め頃に造られた円墳である。1972年、石室内の彩色壁画が確認され、大きな話題となった古墳である。現在、石室そのものは、修復・保存作業のために専用施設に移されているが、古墳に隣接する壁画館で、発見時の様子を見ることができた。
 
明日香村文化財課調整員の西光(せいこう)慎治氏からは、彩色壁画を持つ古墳が日本には高松塚古墳とキトラ古墳の二つしか存在しないこと、そのどちらもが明日香村にあること、壁画や残された副葬品に朝鮮半島の強い影響が見えることなどについて解説があった。特に釜山大考古学科から参加した3名の学生は熱心に質問をし、充実した時間を過ごすことができた。
 
 
 
甘樫の丘
◎甘樫丘(あまかしのおか)
 
 酷暑の中、一行は明日香村が一望できる甘樫丘に登った。近年、甘樫丘と飛鳥の諸宮殿との位置関係を、百済最後の都である泗沘(現在の扶余)と扶蘇山城と関連づける声が大きくなっている。
 
 丘の上からは、先ほど訪問した飛鳥寺はもちろん、大和三山(畝傍山、耳成山、天香具山)や藤原京跡、さらに遠く平城京のあった地域までが一望できた。日韓の学生たちは、汗を拭きながら登った甲斐があったと満足げであった。
 
御幸森神社(大阪市生野区)
 ◎御幸森神社
 日本最大のコリアンタウンとして知られる鶴橋周辺は、もと百済郡百済郷の地で、仁徳天皇の頃に百済の人々が集団居住したと言われる。この地を流れていた平野川は百済川とも呼ばれた。仁徳天皇ゆかりの御幸森天神宮には一つの石碑があり、次のようなハングルが刻まれている。
 
 나니와즈니 사쿠야 고노하나 후유고모리 아마와 하루베토 사쿠야 고노하나
 ナニワヅニ サクヤ コノハナ フユゴモリ イマワ ハルベト サクヤ コノハナ
 (難波津に 咲くやこの花 冬籠り 今は春ベと咲くやこの花)
 
 「難波津の歌」である。平安時代の代表的な歌集である紀貫之『古今和歌集』仮名序によると、第15代応神天皇の皇子二人が皇位を譲り合って3年間も空位となっていたところ、ついに仁徳天皇が即位したので、その治世の繁栄を願って王仁が詠んだ歌であるとされる。
 『日本書紀』に、応神天皇のときに百済から王仁という人物がやってきて太子の師となったとの記録がある。また『古事記』には、百済から和邇吉師という人物が論語十巻、千字文一巻をもたらしたとある。
 その王仁を難波津の歌の作者とする説の真偽は別にして、この歌が極めて古い歌であり、習字の手本として最初に学ぶ歌とされたことから、平安時代には誰もが知る和歌の代名詞になっていたことは確かである。
 1990年、兵庫県の旧家で難波津の歌がハングルで書かれた墨書(対馬藩の通訳官の手になるとされる)が発見されたことを記念して、有志たちが寄付を募り、2009年にこの歌碑を建立した。歌碑にはハングルのほか、万葉仮名の木簡、古今和歌集の書体の三つを並記している。
キム・ドンギュン君(史学科3年)は「教科書にも出てくるので王仁博士の名は知っていましたが、この歌のことは知りませんでした」と言いながら、写真を撮っていた。
講演「古代難波と韓国文化」 大阪歴史博物館(大阪市中央区)
 ◎大阪歴史博物館
 鶴橋コリアタウンで昼食を終えた一行は大阪歴史博物館に移動。同館は、大阪城の目の前、飛鳥時代の難波宮の跡地に建つ。
 難波津の歌碑を見たばかりの一行は、同館学芸員村元健一氏の講演「古代難波と韓国文化」を拝聴し、難波津を舞台とした古代日韓交流について学んだ。明日訪問予定の百済寺跡が、全国に61ヵ所、大阪府内に二つしかない国の「特別史跡」であること、もう一つの特別史跡が目の前に見える大阪城跡であることが紹介されると、日韓の学生双方からどよめきの声が漏れた
 
博物館の窓から
 同館の概要についてご案内をいただいた後に館内を見学したが、十分な時間がとれなかった。参加者たちは、博物館の窓から大阪城、難波宮跡公園を眺めながら、再訪を誓っていた。

世界最古の企業として有名な金剛組の前で記念撮影(大阪市天王寺区)
四天王寺(大阪市天王寺区)
 金剛組の初代金剛重光は、578年に聖徳太子の命によって百済から招かれ、四天王寺を建立した匠(たくみ)の一人である。現在の四天王寺に創建当時の建物は一つも残っていないが、その技術と伝統が現在に継承されていることに、調査団一行は驚きの表情を隠さなかった。

第4日目(8月27日 土曜日)

 第4日目(大阪→京都)

◎伝王仁墓
 第4日目、最初の目的地は「伝王仁(わに)墓」である。一行は、大阪市内から枚方市まで土曜日朝の渋滞に巻き込まれながら、移動中の車内で「伝王仁墓」がどのような場所なのかを予習した。王仁については、御幸森神社の歌碑や昨日の大阪歴史博物館での講演の中でも紹介されたので、一行にとっては、すでに親近感のある人物である。その王仁の墓と伝えられるのが「伝王仁墓」である。
 伝王仁墓は住宅地の中にある。公園の敷地の一角に、王仁の墓と伝えられる自然石と「王仁博士之墓」という文字が刻まれた墓石が置かれているが、その「墓」の前には、韓国独特の彩色装飾である丹青を施した門がある。地元の住民たちが中心になって進めた王仁博士野顕彰事業の一環として2006年に完成したもので、百済門という。
 王仁博士の出生地とも伝えられる全羅南道霊巌郡と大阪府枚方市は、そのような縁から姉妹交流をしているという。ここ「伝王仁墓」は現在の日韓交流にも一役買っているわけである。
 キム・ズンヨン君(国文学科1年)は、「王仁博士が日本に『千字文』を伝えた話は、韓国で少し聞いたことがありますが、日本で王仁博士が思ったよりも高く評価されていて、驚いたし、不思議でした。ここに来て詳しく学ぶことができて良かったです」との感想を述べた。
伝王仁墓(大阪府枚方市)
伝王仁募前にて
◎百済王神社・百済寺跡

 

 百済王神社と百済寺跡は、伝王仁博士墓と同じ枚方市内にある。百済王神社は、百済王の子孫である百済王氏の氏神を祀った神社で、祭神は百済国王と牛頭天皇(素戔嗚尊)である。いまも多くの参拝者がおられるようで、境内は非常にきれいである。
 隣接する百済寺跡は大阪府に二ヵ所しかない国の「特別史跡」で、数年前の大規模な発掘調査が一段落した後は史跡公園として整備された。ともに今も地元の人々に大切にされていることがよく分かる。
キム・レヒさん(中文学科4年)は、「倭国と百済が親しい関係だったという話は学んで聞いていたけれども、本当かなと思ったこともありました。けれども、ここに来て、王仁博士や百済に関する遺跡などが今も日本の人達に大切にされているのを実際に見て、本当に仲が良かったことが分かりました」と述べ、ムン・ギュボ君(日文学科4年)は、「いろいろなものが百済から日本に伝来したという話はよく聞いていたけれど、こうして実際に百済の人々の足跡をたどってみることはとても意味があると思います。普通の旅行ではまず来ることがない場所を訪れてみて、関係の深さがよく分かりました。愛憎ともにある日本と韓国の関係ですが、こうして遠い昔のものが今も大切にされているのを見ることができて良かったです」と語った。
百済王神社(大阪府枚方市)
百済寺跡(大阪府枚方市)
 ◎嵐山
 正午をやや過ぎて嵐山に到着。渡月橋が見えるレストランへ。昼食は冷や奴にハモなど、嵐山らしい和食で、色とりどりの料理に学生たちは目を奪われていた。
 リュ・ヒョヨンさん(日語日文科2年)は「おいしかったです。でもとても量が多くて全部食べられませんでした。全部食べたかったです。豆腐の上に柚子がのっているのは不思議でした。ハモは何のサカナかわかなかったです。骨があるのが分かるけど、気になりませんでした。淡泊でおいしいですね。」と語った。
 
渡月橋
天龍寺

◎天龍寺

 昼食を終えた一行は、京都を代表する寺院の一つ、天龍寺に向かった。この日は土曜日ということもあって、大方丈では曽我蕭白の筆になる『雲龍図』が一般公開されていて見ることができた。手の行き届いた庭園はさすがに素晴らしく、多くの観光客が感嘆の声を上げるなか、一行も盛んに写真を撮っていた。
ノ・スジョンさん(日文学科4年)「こんなに大きな庭園は初めて見ました。閑寂としていて京都らしい雰囲気とはまさにこんな雰囲気なのかなと思いました」、またクォン・ヨンウ君(考古学科1年)は、「本当に日本らしいと思いました。‘ワフウ(和風)’というのはこういうことかなと思います。今まで奈良と大阪のお寺をいくつか見てきたけれど、どこか京都のお寺は発展していてすっきりした雰囲気を感じました」との感想を語ってくれた。
広隆寺(京都市右京区太秦蜂岡町)
 ◎広隆寺
 第4日目のクライマックスは、太秦広隆寺で弥勒菩薩半跏思惟像にお会いすることだった。南の楼門前で記念撮影をした後、講堂で阿弥陀如来像にお参りし、聖徳太子を祀る太子殿を経て、一行は新霊宝殿に入った。
たいへん静かで、制限された光のなかに、多くの仏像が安置されている。広隆寺は、京都を代表する古刹らしく、国宝20点、重要文化財48点をはじめ、数多くの文化財を所蔵しており、その一部を新霊宝殿で見ることができる。
 ずらりと並んだ名宝の数々を静かに眺めていたノ・スジョンさん(日文学科4年)は、「他の仏像と違って、遠くにあって近づけず、小さく見えてどこか神秘的です」と、小さな声で語ってくれた。
 新宝蔵院を出てから、キム・ジュヒさん(史学科1年)は「これまでのお寺と雰囲気が違いました。他のお寺は建物の奥にいる仏様に向かって祈祷をするところが多かったですが、広隆寺は何か展示場のようでした。すごく期待をして見に行きましたが、半跏思惟像は思ったよりも小さくて、知らずに来ていれば見過ごしていたかも知れません」との感想を述べた。同じ仏像を見ても、人によって様々な見え方があるらしい。
 広隆寺見学で京都での日程は終了。明日から一行は滋賀県に場所を移して、「日本のなかの韓国文化」を訪ねる旅を続けることになる。
 
 
中間ミーティングで思いを語る
 ◎中間ミーティング
 彦根市内のホテルに投宿後、夕食をとったレストランを会場に、中間報告会が開かれた。本事業も折り返し地点を迎え、前半4日間の行程を振り返り、後半3日間の行程をどのように過ごしていくべきかを考える場である。班ごとに代表1名ずつが出て、それぞれの立場から前半3日間の良かった点、反省すべき点、改善すべき点、そして今後の抱負や覚悟が語られた。

ソン・ヨンウ君(日文学科3年)は「韓国の文化を学ぶ日本人と、日本の文化を学ぶ韓国人がともに同じ場所を見たときに感じるところは、それぞれ違いがあると思います。そのような部分についてお互いに話ができる時間がもう少しあれば良かった」とこれまでの時間を振り返り、これは後輩の言葉ですと前置きをしながら、「人は変わり成長するものですが、5年後の自分にもし自分が変わった、成長したきっかけは何だったか問うたときに、それはこのプログラムに参加したことだったと答えられたらと思います」と残された日程に期待を込めた。
 ムン・ギュボ君(日文学科4年)は「このプログラムを通じてただの旅行では経験できない有意義な学びを得たい」、「国家間の関係と私たちの関係が別のものであることを感じた。私たちの関係を明日の日韓関係につなげたい」と語り、河合真奈さん(天理大1年)は「韓国語がまだ苦手で日本の学生同士でばかり話をしてしまいがちですが、明日からはもっと積極的に韓国の友達と話をしながら理解を深めていきたい」との抱負を述べた。
 

第5日目(8月28日 日曜日 )

 ◎雨森芳洲庵(あめのもりほうしゅうあん)
 台風の影響か、小雨も降って、連日35度を超えた酷暑も少し和らいできた。5日目の最初の目的地は琵琶湖のほぼ北端にある雨森芳洲庵である。
 雨森芳洲は対馬藩にあって江戸時代の日朝外交に尽力した人物だが、釜山大の学生も天理大の学生も雨森芳洲について詳しくは知らないという者がほとんどだった。館内では、雨森芳洲とその活動について説明をいただいた
 
 芳洲が朝鮮外交の心得を説いて、語った「互いに欺かず、争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候」という言葉を聞いた三宅由華さん(天理大1年)は、「韓国語を専攻する自分たちが、300年前の雨森芳洲の誠信の気持ちを受け継いで、日本と韓国の関係をよりよいものにしていけるよう頑張りたい」と語った。
 キム・ソルランさん(日文学科4年)は「雨森芳洲先生については何も知りませんでした。9月に釜山で朝鮮通信使行列の再現行事があって、それにボランティアで参加する予定です。今日、私が教わったことを参加者の方たちに伝えたいです。」との意気込みを語ってくれた。
雨森芳洲庵にて(滋賀県長浜市高月町)
雨森芳洲とその活動について説明をいただく
鬼室神社(東近江市日野町)
 ◎鬼室神社(きしつじんじゃ)
 白村江の敗戦以後、滋賀県には多くの百済遺民が移り住んだ。鬼室集斯もその一人である。7世紀後半の近江朝廷で、その学識・経験を重んぜられた集斯は、百済の男女700余人とともに近江国蒲生郡に移住した後、大学寮(官吏養成機関)の長官にあたる学職頭に任命された人物である。
 現在、鬼室神社の境内には八面角柱状の墓石があり、正面には「鬼室集斯墓」という文字が刻まれているというが、我々が訪問した際、墓石の納められた石室の扉は閉じられていた。
 滋賀県野洲市から訪れたという年配のご夫婦が「どこから来たの?」と声をかけてくださった。日韓の学生たちが「奈良です!」「釜山です!」「韓国です!」と答えると、すこし驚きながらも「いいことだね。遠いところまでよく来られたね」とねぎらってくださった。
 川畑早紀さん(天理大1年)は「鬼室神社は事前学習で自分が担当した場所だったので、実際に来られてよかった。思った以上に小さかったことと韓国式の色づかいの建物(亭子)があったことが印象的でした」と述べ、ペ・ウンヘさん(日文学科4年)も「韓国式の亭子(あずまや)が滋賀県のこんな山里に建っているなんて」と驚いていた。
百済寺(東近江市百済寺町)にて
◎百済寺(ひゃくさいじ)
 百済寺は湖東三山(百済寺、金剛輪寺、西明寺)の一つに数えられる名刹である。寺伝によると、創建は606年(推古14)、聖徳太子の発願により、高句麗僧慧慈(えじ)を導師に百済僧道欣(どうきん)が創建したという。
 クォン・ヨンウ君(考古学科1年)は、「景色がとてもよく、鐘も鳴らすことができました。雰囲気も静かでとても良い場所でしたが、名前にある百済の痕跡はあまり感じられませんでした」と少し残念がっていた。山口由貴さん(天理大1年)は、「自然に囲まれた中に、池や石畳や石の階段があるのが印象的でした。他のお寺と比べても、独特な雰囲気でした」と語った。
講演「琵琶湖博物館の取り組み」
◎滋賀県立琵琶湖博物館
 昼食を終えた一行は、滋賀県立琵琶湖博物館に向かった。同館は、「湖と人間」というテーマを掲げ、自然と文化の両方を同時に扱う総合博物館で、琵琶湖の環境展示の一環として、淡水魚やバイカルアザラシなどの水族展示も行っている。
 一行はまず、同館専門学芸員である橋本道範氏の講演を拝聴した。橋本氏は知る人ぞ知る「フナずし博士」で、琵琶湖を代表する特産品であるフナずしの歴史、フナずしをとりまく文化に関する第一人者である。今回はフナずしを中心としながら、琵琶湖周辺地域の食文化および自然環境に広がる話に耳を傾けた。学生調査団一行からは、フナずしの味や値段、琵琶湖の固有種であるニゴロブナの生態などについても活発な質問が出た。
 
ふなずしのにおい
 講演の後は、閉館時間まで館内を見学した。夏休み最後の日曜日ということもあり、広い館内は親子連れを中心とした観覧者で一杯だった。一行は、要所要所で橋本氏の解説を聞きながら、琵琶湖の歴史を紹介するコーナーや淡水魚の展示コーナーなどを見て回り、学びを深めた。フナずしのにおいが体験できるコーナーでは、「においは耐えられますが、食べたいとは思いません」という声もあがった。
 館内見学を終えたキム・ソジンさん(日文学科4年)は次のように語ってくれた。
 「琵琶湖博物館は今まで見て回った中で一番楽しい場所でした。私は6ヵ月間関西で留学をした経験があり、京都や大阪は色々と行ってみましたが、滋賀県に来たのは初めてです。海外旅行が趣味でバイカル湖にも行ったことがありますが、本当に見るだけでした。今回は博物館で色々な展示や資料も見て、橋本先生の有益な講義も聞くことができて勉強になりました。これまでお寺や神社を中心に回って歴史の勉強になりましたが、今回は日本の自然について学ぶことができて本当に良い機会でした」
 四元結唯さん(天理大1年)も、琵琶湖博物館を訪れたのは初めてだったという。琵琶湖の歴史についてもちゃんと勉強したことはなかったし、フナずしについても知らないことばかりだったので勉強になったと話してくれた。
 
滋賀県立琵琶湖博物館

第6日目(8月29日 月曜日 )

石山寺見学(滋賀県大津市)
 第6日目(滋賀県)
◎石山寺
 第6日目、最初の目的地は石山寺である。ホテルから石山寺までは、瀬田の唐橋を渡って20分ほどで着く。
 古代の瀬田の唐橋は朝鮮から伝わった技術によって架けられたと言われる。現在の唐橋は鉄筋コンクリート製になっているが、欄干には擬宝珠が施され、古風な橋の風情を伝えている。
 石山寺は、8世紀半ばに聖武天皇の命で、奈良の高僧良弁(ろうべん)が開創した。『元亨釈書(げんきょうしゃくしょ)』(14世紀)という書物には「釈良弁、姓は百済氏、近州志賀里の人、或は相州と曰ふ」とあり、良弁を百済系の渡来人としている。真偽のほどは不明であるが、石山寺創建に近江の渡来人が深く関わっていたことをうかがわせる話である。
 紫式部が『源氏物語』を書き、源頼朝が寄進した東大門や鐘楼(ともに重要文化財)、多宝塔(国宝)などが現伝し、松尾芭蕉、島崎藤村らとのゆかりも知られる。近江を代表する名刹の一つである。
 パク・ヨンスさん(日文学科3年)は、「授業で聞いていた紫式部や松尾芭蕉がいた場所に自分が立っていると思うと不思議な気持ち」と感慨深そうに語った。学生たちからは、夏もいいけど、春や秋に来たらもっと良い景色が見られるのにと残念がる声があがった。
 
紫式部がいた石山寺
バスの中で交流
 ◎宗陶苑
 石山寺を後にした一行は再びバスに乗り込み、信楽焼の郷(滋賀県甲賀市信楽町)に移動した。いつものように、バスの中では移動時間を交流の時間に充てられるよう、日韓の学生が交互になるように座り、時に韓国語、時に日本語で話をした。
 
たぬきがいっぱい!
 信楽焼は、13世紀後半頃に始まった窯で、日本六古窯に数えられる。六古窯とは、鎌倉・室町時代から焼き物を作り、今もその伝統を受け継ぐ焼き物の産地で、常滑・瀬戸(愛知県)・信楽・越前(福井県)・丹波(兵庫県)・備前(岡山県)の六窯をいう。
宗陶苑にて
 信楽焼といえばタヌキが全国的に知られるが、主な生産品は生活雑器で、陶土の特性を生かして1m以上の大型の陶器が作られてきた。登り窯で焼成するときに炎や灰によって作られる独特の色や素朴な土の色合いも特徴である。タヌキの置物は、昭和天皇が信楽を訪問され際に、日の丸を持ったタヌキの置物が沿道に並べられ、これに天皇が感激されたというエピソードが全国に伝わり、有名になったものという。
宗陶苑の8代目上田寿樹(としき)氏(代表取締役会長)の話によれば、ガスや電気の窯を使用する窯元が増加するなか、宗陶苑では、信楽焼の窯の中では唯一、いまも現役で登り窯を使用しており、1年に2回、登り窯に火を入れて陶器を焼いているという。
 この日はちょうど火が入ったばかりで、8代目上田宗(たかし)氏が、炎の様子を確認しながら、燃料となる赤松の薪を窯の中に投げ入れる様子を見ることができた。
 コ・ソヨンさん(国文学科4年)は「窯をこんなに近くで見るのは初めてで本当に興味深かったです。平らな場所にある窯は見たことがありますが、登り窯を見るのは初めてです。このような窯がずっと維持され続けてほしい」と語った。室屋夏希さん(天理大4年)も「信楽焼といえばタヌキの置物というイメージしかありませんでした。焼き物の窯を見学するのは初めてです。1年に2回しかない火入れの時期に訪問できて本当に運が良かったです」と喜んだ。
 
伊賀もくもくファーム(滞在型食農学習施設)企業訪問
 ◎伊賀の里モクモクファーム
 宗陶苑を後にした一行は、本プログラム最後の目的地である「伊賀の里モクモク手作りファーム」(三重県伊賀市)を訪問した。
 1983年、人口約8,000人の町(三重県阿山郡阿山町)で「伊賀豚」を開発した養豚農家を中心に設立された「ハム工房モクモク」が母体であるという。1989年に始めた「手づくりウィンナー教室」が大きな人気を呼び、徐々に規模を拡大。現在では、基盤となる直営農場と農産加工の各工房の運営のほか、年商50億円、年間50万人の来園者を誇るファクトリーファーム(農業公園)の運営、会員制の農産物の通信販売なども行っている。
 農業が「食べていけない仕事」となり、農村の疲弊が深刻化している日韓両国の学生にとって、「加工・販売までを農業としてとらえることで、多くの若者たちが農業でめしを食っていける環境を整えること」を目指す同ファームの取り組みを学ぶことは大きな意味がある。
 学生調査団一行は、視察プランでの滞在をお願いし、ファーム運営部ゼネラルマネージャーの松永茂氏から同ファームの歴史と沿革、現在進行中の様々な取り組みについての説明をいただいた。
 質疑応答の時間、ソン・ヨンウ君(日文学科3年)からは「韓国でも農業者が費やした労力や時間に対して、得られる報酬はあまりにも小さく、若者たちは農業をやろうと思いません。高い値段だと消費者は買ってくれません。モクモクファームでは、質の良い農産品であれば値段が高くても、たくさんの消費者が買ってくれているとのことですが、その秘訣は何でしょうか」という質問が出た。
 
松永氏は、「全ての消費者が私たちの取り組みを理解してくれているとは思っていません。けれども、その価値を認めてくれる人たちが、直接ここに来て、また通信販売を利用して、私たちの農産品を買ってくれています。私たちの取り組みを理解し、会員となってくださっている方が約50,000世帯いらっしゃいます。このように農業の本当の価値を理解してくださる方たちがさらに増えていくことを願っていますし、そのための努力を続けていくつもりです」と答えてくださった。
これからの畜産業、農業について学びました!
歓送会(お別れ、そして始まり・・・)
 夜は学生調査団一行がともに過ごす最後の夜となる。夕食としてモクモクファームで育てられた伊賀豚、農産品のBBQをいただいた後、反省会が開かれ、この6日間をともに過ごしたメンバーの様々な思いが語られた。
 中川千春さん(天理大4年)は「日韓関係がいいとか、悪いとか、国のレベルでは色々な話がありますが、私たちの間には何もないことが確認できました。私は韓国が好きで勉強してきましたが、これからも一生韓国に関わり続けていきたいです」との思いを述べると、ムン・ギュボ君(日文学科4年)からは、中間ミーティングで反省点として挙げられたことが翌日から改善されていき、学生たちの相互交流も急速に進んだことが述べられた後、「参加して本当に良かったです。私たちがともに過ごした時間は短く、この出会いが一時的なものになることもあると思いますが、この関係を長期的にずっと続けていきたい」との抱負が続いた。
 石川琴菜さん(天理大1年)は「今回のプログラムを通して、自分が日本人なのに日本のことをあまり知らないということが分かりました。これから韓国についても、日本についてもちゃんと勉強していきたいし、みなさんとの交流をこれからもずっと続けていきたいです。来週釜山に行きますので、会ってください!」と述べると、一同から大きな拍手が起こった。
 最後は、日文学科学生会長であるコ・ガンウク君(日文学科3年)が「このプログラムの主題は‘日本のなかの韓国文化’ということでしたが、‘アジアのなかの韓日文化’という主題になったように思います。私自身は韓日間の外交関係分野に進出したいと思っています。何年か後、その仕事をしているときにこのプログラムがその原動力になったと言えると思います。このような機会を与えてくださった関係者のみなさんに心から感謝を申し上げます。この7日間の活動を忘れずに恩返しをしたいと思います」と今後への思いを語った。

第7日目(8月30日 火曜日)

伊賀もくもくファーム
 第7日目(伊賀→天理)
台風の影響で、学生調査団が伊賀に滞在するあいだ、悪天候が続いた。警報も出て、楽しみにしていた農業体験ができなかったのは残念だった。
 朝食をとって、出発までの時間を園内を見学しながら過ごした一行は、台風が過ぎて一転して晴れた空の下、モクモクファームの入り口で記念撮影を終え、天理大学に向かった。
 
解散式~天理大学にて

 ◎解散式
 天理大学に到着後、解散式が行われ、本プログラム代表の長森准教授(天理大学)から各自に認定証が送られた。
私たちは多くのことを学びました。あなたたちに出会えて・・・
 今次学生調査団の現地調査は本日をもって終了したが、本事業はまだ続く。関西空港に向かうバスに乗り込む釜山大の学生たちと天理大の学生たちは互いに抱き合い、目に涙を浮かべながら再会を誓った。
 

成果報告会を開催

 10月11日(火)、「天理大学・釜山大学校『日本のなかの韓国文化』学生調査団・近畿編」の成果報告会が開催された。
 本事業は、外務省主催の国際交流事業「JENESYS2016」の一つとして、公益財団法人日韓文化交流基金の実施する企画競争公募により採択され、同基金と天理大学との共同事業として実施されたものである。
 日韓学生調査団の一行は、8月24日に天理大学(奈良県天理市)で結団式を行い、その後、7日間をかけて、奈良県、大阪府、京都府、滋賀県、三重県の韓国関連史跡や寺院、博物館や信楽焼の窯元、農場などを巡った。
 本報告会には、本学韓国・朝鮮語専攻の学生をはじめ、教職員あわせて約50人が参加した。はじめに長森美信(みつのぶ)准教授から、本事業の趣旨と概要について説明があった後、参加学生たちが、①奈良班(大西彩花、辻加奈子、松本萌、三宅由華)、②大阪班(猪口大貴、正野めぐみ、濱田美保、四元結唯)、③京都班(室屋夏希、河合真奈、川畑早紀)、④滋賀・三重班(中川千春・奥田隼生・山口由貴・石川琴菜)の四つのグループに分かれて、6泊7日の調査旅行の内容と成果についてそれぞれ報告をした。(訪問地の詳細については調査日誌を参照)
奈良班
奈良班
大阪班
大阪班
京都班
京都班
滋賀・三重班
滋賀・三重班
班ごとの報告を聞いた坂藤唯さん(1年)は「学生調査団が訪問した場所のなかには、行ったこともないし、聞いたこともない場所がたくさんあって驚きました。自分の地元に近いところもあるので今度行ってみようと思います」と感想を述べた。
 一方、川端塁くん(1年)は「1週間をずっと韓国の学生と一緒に過ごして、どのような話をしたのか、どのような時間を過ごしたのかを、もっと詳しく聞きたいです」との声があがった。本事業参加者たちは1週間の経験を細かく話すことはできないけれど、と前置きをしながら、それぞれの経験と今後のアクションプランを報告した。
 濱本美保さん(1年)は「日本語が上手な韓国人、韓国語が上手な先輩たちを見て驚いた。元々あまり日本の歴史に関心がなかったが、本事業に参加することで日本と韓国の歴史について興味が生まれた。プログラムの期間中、自分の勉強が全然足りないことを実感した。来年交換学生として留学することになっているが、韓国では言葉だけでなく、いろんな事をたくさん勉強したい。大学卒業後、どんな仕事をするにしても、今回の経験がきっと役に立つと思う」と語った。
 また、室屋夏希さん(4年)は「これまで韓国語で話すときに間違えることを恐れて、言葉が出てこないことが多かったが、本事業では積極的にたくさん話そうと心に決めて交流に取り組んだ結果、本当の友人ができた。本事業が、迷っていた韓国の大学院への進学を決心する機会になった。本事業で学んだことを今後に生かし、日韓の交流を支える人材になりたい」と決意を述べた。
 1週間の事業内容のすべてを紹介するには報告会の時間(90分)はとても短かった。本報告会で語り尽くせなかったことを含め、本事業の内容と成果をまとめた最終報告書の刊行に向けて、学生調査団の活動はなお継続中である。
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