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 【天理大学百年史コラム(9)】

天理学寮 杣之内ふるさと寮

2021年3月末に、天理学寮杣之内ふるさと寮、豊井ふるさと寮及び田井庄ふるさと寮は閉寮となります。
寮といえば、寮生にとっては、学生時代を過ごした自分たちの家そのものです。また寮外生にとっては、キャンパス内にありながらも、なかなか立ち入ることのない未知の場所だったかもしれません。
杣之内ふるさと寮(元外語寄宿舎)は、本学の創設とともに設置され100年近い歴史を歩んできた、本学の歴史と切り離せない場所です。
そんな杣之内ふるさと寮の歴史と、今の寮の姿をご紹介します。

外語寄宿舎の誕生

杣之内ふるさと寮は杣之内キャンパス内の南端にあり、田井庄ふるさと寮は体育学部キャンパス内の北端にあり、いずれも男子寮です。また豊井ふるさと寮は杣之内キャンパスの北東1kmほどの場所にある女子寮です。その他、本学には運動部所属の女子学生が利用する前栽ふるさと寮、柔道部の田町ふるさと寮、天理大学ラグビー寮、天理大学野球寮があります。
最初はひとつの寄宿舎から始まり、女子寮が別に設置され、やがて体育学部にも寮ができ、次第に現在のように寮が設置されました。

天理外国語学校を創設するにあたり、天理外国語学校の教育方針として「教義と語学とを主として、深く心に植ゑ付けようと云ふのであるから、本校を地場に置いて、日常座臥の間に本校の教理を会得せしむると共に、寄宿舎を設けて、成るべく語学の実地練習を行はしめ、以つて本校所期の目的を達せんことを期待」することが掲げられました。
こうして学校の創設は、寄宿舎(後の寮)の設置と合わせて進められました。また入学志願者心得に「本校ニ入学ヲ許可セラレタルモノハ本校教育ノ趣旨ヲ徹底セシムルタメ寄宿舎ニ入舎セシムルモノトス」とあるように、入学者は全員寄宿舎に入舎することが決められていました。
しかし実際には、第1回入学者108名のうち、入舎したのは60余名で、全員が寄宿舎で生活を始めたわけではありませんでした。
寄宿舎規程第四條に、「本校生徒ハ凡テ入舎スヘキモノトス 但シ特別の事情アルモノハ学校長ノ許可ヲ得テ通学スルコトヲ得」とあり、これに則り、家や詰所から通学していた学生もいました。
実は、この時は寄宿舎はおろか、校舎さえも無かったので、天理中学校の寄宿舎の一部を借りて住まい、1925年9月には、天理中学校の北隣に新築された臨時の寄宿舎に移りました。
1930(昭和5)年度からは「寄宿舎入舎希望者ニ対シテハ銓衡ノ上之ヲ許可ス」と、規程が変更され、希望者のうち銓衡に合格した者のみが寄宿舎に入りました。その後も、同様の形式が続いています。

1926(大正15)年に天理外国語学校の校舎(現一号棟)が建設されるにあたり、同時に校舎のすぐ南側に寄宿舎が新築され、1927(昭和2)年4月3日に竣工しました。こうしてようやく、天理外語の校舎と寄宿舎が完成しました。
そして、この場所に現在も杣之内ふるさと寮があり、当時の寄宿舎の本館は今も使用されています。

寄宿舎の落成式を報じた『みちのとも』485号には次のように書かれています。
「四月二十九日午前十時より天理外語において寄宿舎落成式があった。
同学校の裏手に日本風の建物で、用材は四十年祭の仮祭場で使用されたものである。(中略)内部は明るい感じのいい極めて優美な気分のする室であって、部屋は二人づつ住むやうに当てられてある。
監督室、大広間、食堂、男女生の湯殿、炊事場及炊事長室等の設備はよく行届いてゐて整頓されてあった。」
また寮での生活管理については
「すべて生徒たちの思ふままにさせる。即ち生徒たちの自治にまかせる、と云ふたところがこの寄宿舎の誇りであり、美点とも云ふべき処である。」としています。 
ちなみに、一号棟の落成式である1926年10月28日に撮影された写真には、「本校新築落成式当日ノ寄宿舎」と書き添えられた寄宿舎の姿が写っています。寄宿舎の竣工は翌年4月とされていますが、写真を見る限りでは、この頃には外観はほぼ仕上がっているようにみえます。 

寮の建物

1927年に建てられた寄宿舎は、食堂や風呂、応接室や講堂を備えた木造2階建ての本館に加え、居室がある北寮・南寮・西寮の木造2階建ての3棟がありました。現在は、本館以外の建物はすべて新しく建て替えられており、本館も一部改造しています。
また本館と西寮の奧にそれぞれ舎監宅が設けられていました。同年4月29日には開舎式が行われ、宴会も催されました。北寮と南寮には男子が、西寮には女子が入舎しました。

現在の本館には、1階に事務室、中庭、更衣室、会議室、トイレ、風呂、食堂、講堂があります。広い玄関を入ると、中庭を囲んで回廊があり、その周りにこうした部屋などが配置された和風の様式です。
2階は、竣工当時は北側に講堂、南側に集会室が設けられており、2室の中央に階段がありました。現在は、中央ではなく南側に階段があり、中央のふすまを開ければ、広い一室になります。

1933(昭和8)年に、本館2階の講堂内に神殿が新設されることになり、7月11日に鎮座祭がおこなわれ、翌年6月12日に講名「ふるさと」を拝受しました。
これにより、講堂は神殿へと姿を変え、その後新寮(現北寮)の増築(1962年)に合わせて、神殿の改造、拡張がおこなわれ、現在のように大きな広間を構えたふるさと講の神殿が本館2階に誕生しました。
おそらく、この時に階段の位置も付け替えられたとみられます。現在は玄関を入って右側に階段がありますが、初期の略平面図をみると、入って左側に階段があります。その後、2007(平成19)年3月に、ふるさと講は天理教教会本部へとお戻しされ、現在は杣之内遙拝所と名称を変えて、寮生や学生の信仰活動の場になっています。
 
この神殿改造時に、1階にある炊事場、食堂、浴室も改善されました。食堂は講堂に、配膳室などのあった場所が食堂に変わっています。風呂は、もとは大きな浴槽がひとつ設置されており、中央を壁で仕切って両側に浴室を設けているような形であったとみられます。それを、それぞれ独立した風呂に改造したのも、おそらくこの時でしょう。

寮の名称変更

現在は、寮全体の名称が「杣之内ふるさと寮」と名付けられ、その中の北側にある舎を「北寮」、そして南側にある舎を「南寮」と呼びます。しかし、時代とともに寮の名前は改称され、寮自体を「南寮」と呼ぶ時代もありました。
開舎当初は天理外国語学校寄宿舎(外語寄宿舎)でしたが、1942(昭和17)年4月から寮を二箇所に分け、外語寄宿舎は「語学寮本寮」と改称され、元芦津詰所に分寮ができます。
当時舎監をしていた塩谷寛先生は、「はっきりした理由は今もってわからないが、昭和十七年四月から従来の外語寄宿舎は、本寮と分寮に二分された。二分と言い本寮と言うも名のみで、寮生の大部分である百人余りの生徒と、舎監及び全炊事要員は、僅か二十名足らずの扶育生を留守番として本寮に残し、その殆んどは分寮と指定された丹波市の芦津詰所に移転した」と、回想しています。
このとき、本学だけでなく、天理教管内の各学校の寄宿舎が拡充新設移転します。天理女子専門学校(旧天理女子学院)の寄宿舎は、天理女子専門学校寄宿舎から天理女専寮へと改称し移転もしました。天理教校は寮を新設し、天理中学校も分寮を設置、天理中等学校・天理高等女学校・天理夜間女学校はいずれも移転し、名称を寄宿舎から寮に変更しています。
しかし、終戦直後の1945(昭和20)年9月には、分寮を廃止し再び語学寮本寮(北寮・南寮)のみとなりました。
ちなみに、西寮については、当初は女子の寄宿舎でしたが、1929(昭和4)年に女子は奈良詰所へと移り、それからは西寮も男子が使用していました。
そして、1942(昭和17)年の寮の二分により、本寮にはわずかの寮生しか居なかったので、北寮だけを使用していました。西寮は1943年頃に教室に改造され、後に天理学園の教職員住宅として使用されました。現在は、西寮だった建物は取り壊され空き地になっています。 
1948(昭和23)年4月から天理教管内の学校寮はすべて天理教いちれつ会に移管されることになり、これにより杣之内の寮全体が「天理教いちれつ会南寮」に改称されます。さらに翌年に天理大学が発足するに伴い、天理教いちれつ会から財団法人天理大学へと移管され「天理学寮南寮」へと改称されます。
このとき、女子が入る布留の寮は東寮、柔道コースの学生が入る三島の寮は西寮と呼ばれ、杣之内以外に点在する寮を含めて、方角を指した名称がそれぞれに付けられました。
 
現在の北寮の建物は、1962(昭和37)年7月4日に、南寮は1970(昭和45)年9月5日にそれぞれ落成式がおこなわれました。最初の北寮は、現在の南寮のすぐ北側にあり、この建物を残したまま、現在の北寮が増築されました。旧北寮(最初の北寮)の建物は平成中期頃まで残されていたので、今でも玄関や入り口の名残が残っています。
そして、現在の南寮は最初の南寮があった場所に建っています。
現在の北寮が落成したときに、北寮には「ふるさと」の寮名がつき、1964(昭和39)年6月には全体が「杣之内ふるさと寮」と改称され、現在までその名が引き継がれています。また、1963(昭和38)年4月には、田井庄ふるさと寮が開寮したことにより、体育学部の男子学生は杣之内から田井庄の寮へ移りました。
 

寮の史料

寮の閉鎖にともない、寮の倉庫などに保管されていたものを調査し、大学史資料として保存しておくべきものを年史編集室へ移動しました。
1976(昭和51)年6月に発行された『杣之内ふるさと寮五十年誌』では、「編纂に入って残念に思ったことは、参考にする記録が極めて少なく、歳月とともにそれらに関する資料も埋没や散逸し、その収集に時間がなかったことである」と綴っています。
年誌が編纂された45年前の時点で、記録が極めて少ないと語っており、やはり今回の調査でも古い記録類はほとんど見つかっていません。

唯一、古いものは昭和2年度、3年度の北寮の「舎務日誌」ですが、内容は日直氏名や、簡単な行事のみで、日々の詳細な動向などの記録はありません。
寮内誌『寮友』が1952(昭和27)年から発行されていますが、保存されていない既刊号が多く、今後も収集する必要があります。
また、北寮の寮内誌『ふるさと』も1965(昭和40)年から刊行されていますが、『寮友』同様に保存されていません。これらは、毎年度末に発行して卒寮生に配られていた記念誌で、当時の寮生の思い出などが記されており、寮でおこなわれた行事や日々の生活を知る大切な資料です。

この場所で学生生活を送り、集団生活の中で様々なことを経験し、喜びや楽しみ、時には悲しみを感じて過ごした時間が寮には染みついていると思います。寮は閉鎖となりますが、たくさんの卒寮生が残した思いは、天理大学の歴史としてこの先も残っていきます。
 


参考資料
・『天理大学五十年誌』天理大学五十年誌編纂委員会編 1975
・『杣之内ふるさと寮五十年誌』杣之内ふるさと寮五十年誌編集委員会編 1976
・「みちのとも」484号 天理教道友社 1927年4月20日 
・「みちのとも」485号 天理教道友社 1927年5月5日  
・「ふるさと」創立五十周年記念特別号 通算36号 天理学寮杣之内ふるさと寮北寮創立五十周年記念行事実行委員会 2012
・「寮友」創立九十周年記念特別号 天理学寮杣之内ふるさと寮南寮創立九十周年記念行事実行委員会 2016
・「昭和30年度天理大学入学案内」(年史編集室収蔵)
・昭和5年 天理外国語学校学則(年史編集室収蔵)
・入学志願者心得(年史編集室収蔵)
・昭和4年10月31日学生生徒学資調査ノ件(年史編集室収蔵)




※特に所蔵先を明記していない写真については、すべて年史編集室収蔵資料です。

 

(年史編集室 吉村綾子)

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